「セクシー田中さん」をめぐる“不幸な”事件の2つの原因
「セクシー田中さん」の原作者でマンガ家の芦原妃名子氏のご冥福をお祈りするとともに、関係者の方々には謹んでお悔やみを申し上げます。
この事件が起こった直後に日テレから出されたコメントには耳を疑った。自己防衛としか思えない言葉が並んでいたからである。自己防衛をする前に、することがあるのではないかと憤りを感じた。それは昨年2023年の3月にテレビ東京を退職するまで、私もドラマのプロデューサーをしていたからである。
同じクリエイターとして、またドラマやテレビ局の現場をよく知る者として、テレビの現状やドラマの実状を明らかにしながら「今回の“不幸な”事件がなぜ起こってしまったのか」を分析してみたいと思う。そうすることが、亡くなった芦原氏や事件に巻き込まれた当事者の方々のためだと考えている。
私は「“不幸な”事件」と述べたが、その表現がもっとも正しいと感じている。それは今回の事件は、以下の2つの大きな原因があると確信しているからだ。
① 「ドラマ偏重主義」からくる「ドラマ多産化現象」
② コミュニケーションの断絶
テレビ局で進む「ドラマ依存」
まず、①「ドラマ偏重主義」からくる「ドラマ多産化現象」から検証してみたい。事件の経緯を、芦原氏のブログからの抜粋で簡単に整理してみる。芦原氏は「ドラマ化するなら、『必ずマンガに忠実に』」や「マンガに忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく」と述べ、「原作者が用意したあらすじやセリフは原則変更しないでいただきたい」と当初から主張していた。
しかし、「毎回、マンガを大きく改編したプロットや脚本が提出されて」いた。そして、こうしたやり取りが何度も繰り返されたため、最後の部分の9話、10話については自身で執筆することになったと、脚本家を差し置いて自分が執筆することになった理由を記している。
これらの経緯が事実であるとすれば、「なぜテレビ局は、原作を改変してまでドラマを制作しようとしたのか」という疑問が浮かぶ。この問題の根源には、私が自著『混沌時代の新・テレビ論』で指摘したように、現在のテレビ業界の「ドラマ偏重主義」からくる「ドラマ多産化現象」があると考えている。
「採算の悪いコンテンツ」を「ドル箱」に変えた見逃し配信
近年、テレビ局はドラマ制作に躍起になっている。ドラマはほかの番組ジャンルより格段に制作費がかかる。そのため少し前までは費用対効果が低いと考えられてきた。だが、いまドラマはテレビ局にとって「採算性が悪いコンテンツ」ではなく、「ドル箱」とも言える重要コンテンツに変わろうとしている。