このままでは悲惨な出来事が繰り返される
「セクシー田中さん」のドラマ自体はよくできていた。演者も素晴らしかったし、美術や装飾、衣装、撮影や演出もよかった。一部には演者をバッシングするサイトも見られるが、それは明らかに門違いだ。映像化に関して「やるべきではなかった」とは思わない。ただ私は、いいマンガ原作があると「何でもかんでもドラマ化しようとする」という風潮から脱するべきだと提言しているのである。
「映像化が可能か」「映像化がふさわしいか」という吟味は必要だし、吟味をしたうえで、「このマンガの世界観には手を出すのはやめよう」という決断も必要なのではないかと思う。それがその作品へのリスペクトというものではないだろうか。
私は来るべき配信時代を見越して、2018年からオリジナル脚本によるドラマ制作を積極的におこなってきた。その数は20本にのぼる。そんな経験から、今後はさらにオリジナル作品を増やして配信の場をうまく利用してゆくということがテレビ局の活路となると提言したい。
ドラマは配信時代を迎え、ドル箱コンテンツとなりつつある。しかし、今後、同じようなドラマばかりが増えるという「ドラマのステレオタイプ化」が進み、配信においてドラマが飽和状態になったときに生き残ってゆけるかどうかを左右するのは、その作品のオリジナリティである。原作者との交渉がうまくいかない、もめ事が起こったなどのトラブルが発生するとその作品は配信ができなくなってしまったりする。それどころか、今回のような人の命に関わるような悲惨な出来事を引き起こしてしまう。
「テレビの腐敗」を止める薬はあるのか
マネタイズやドラマ多産化の流れはますます加速するだろう。そうなると時間やカネがないという理由でコミュニケーションの疎通がうまくできないことも増えてくる。その相手は、監督などのスタッフ、原作者、脚本家などいろいろだ。監督はいなければ制作は成り立たない。脚本も必要だ。しかし、原作はなくとも「オリジナル」で作れば成り立つはずだ。
オリジナルの脚本をゼロから作り出すことは大変な労力が必要である。元々あるものを活用するのではなく、自らアイデアをひねり出さなければならない。しかし、これにはテレビ局の生き残りがかかっている。何が何でもやり遂げなければならない。
他人の模倣や焼き直しではなく、自分がいままでにないまったく新しい映像作品を生み出してやるのだという気概をもって、クリエイターはいまの逆境に立ち向かわなければならない。
その気持ちこそが、いま始まっている「テレビの腐敗」を止める薬なのだ。