しかし、原作者に関しては少し事情が違う。プロデューサーが企画の際、原作を選ぶのは「その作品がおもしろいか」や「売れているか」「人気があるものなのか」など“作品本位の”理由である。脚本家の場合とは違って、扱いやすさや言うことを聞いてくれるといった“人物本位の”基準ではない。
だから、今回の芦原氏の「ドラマ化するなら『必ずマンガに忠実に』」や「マンガに忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく」という要望や、「原作者が用意したあらすじやセリフは原則変更しないでいただきたい」という主張は、最初の段階で現場の制作者たちに「厄介だなぁ」という印象を与えてしまった可能性があると推察する。
私自身もそういった体験をしたときに、「脚本家やわれわれプロデューサーに任せてくれたらいいのになぁ」と感じたことがあるからだ。
テレビ局と原作者のボタンの掛け違いが生まれる背景
私たち映像クリエイターは映像のプロという自負がある。もちろん、原作者をリスペクトしているし、原作を尊重もする。しかし、原作の「二次元の世界」と映像の「三次元の世界」は違うと自認している。次元を超えて原作の面白さや素晴らしさを実現するのが役目だと確信しているからだ。
だが、同じような自負とプライドが芦原氏側にもあった。今回の場合は、こういったように互いの「認識の違い」というボタンを掛け違ったのと同じような状況で制作が始まってしまったことが大きな原因であると指摘したい。それが、私が最初に「“不幸な”事件」と述べた理由であり、この事件の二つ目の原因である②「コミュニケーションの断絶」につながる要素となっている。
私もこれまでに出演者やスタッフ間でのコミュニケーションの疎通が最初の段階からうまくいかずに苦い思いをしたことが数多くある。あるときは、最後までやったが惨憺たる作品になってしまったこともあるし、途中で空中分解してしまったこともあった。
今回の事件を受けて、記者会見で松竹、東宝、東映などの映画会社の社長がコメントをしている。彼らが述べているように「原作モノ」と言われる原作をベースにするドラマ作品は「原作の素晴らしいところを生かしていくのが大前提」なのは当たり前で、「プロデューサーはその作品をどう表現するか、作者の先生と話をしていくのが原則」なのも重々承知している。
「原作を映像化することは、原作者の方の許諾がないとできない」のも当然。しかし、「原作の方とわれわれの方向性が違う時は、コミュニケーションを取って互いに了承する」「どう映像化するかはクリエーティブな部分で合意を重ねてやっていく」ことにまで至らなかったのが今回の背景にあるのだろう。
そこには先に述べたような「ドラマ偏重主義」からくる「ドラマ多産化現象」が大きく影響している。
テレビ局の「収益化偏重」に振り回される制作現場
テレビ業界はいま「戦国時代」にある。「映像ビジネス」の覇権と生き残りをかけた配信との激しい攻防戦の真っただ中だ。地上波放送枠での収入が見込めないテレビ局にとって、「マネタイズ」にパラダイムシフトを強いられるのは、致し方ないことだ。