だが、その「しわ寄せ」は現場にゆく。配信での二次利用をにらんだドラマ多産を求められる中で、制作費削減は留まることを知らず、これまで以上にペースを上げて制作を進めなければならない。原作通りの映像化をやっていては期限や予算にはまらないというのが正直なところだろう。

実際に、原作で設定されている主人公の職業や仕事場を変更することは序の口である。カネがかかり過ぎるという理由で、サスペンスドラマの犯行の手口が変わることも日常茶飯事だ。そこにあるのは、「マネタイズ邁進」というテレビ局の方針と、それに逆らえないテレビ局社員のサラリーマンとしての悲しいさがである。

以上のようなテレビの現状と現場の事情の中で、「制作者側」と「原作者側」がしっかりと会話をするなどのコミュニケーションを取る時間と余裕がなかったことが、今回の事件の一番の原因ではないかと私は考えている。

いや、もしかしたら制作者側は「しっかりとコミュニケーションは取れている」と思っていたのかもしれない。改変においても「ちゃんと原作者のOKがもらえている」と信じ込んでいたのかもしれない。だが、ハラスメント事案と同じで、コミュニケーションの断絶は相手がそう思えば「そうだ」ということになってしまうのだ。

では、いったいどこにコミュニケーションの断絶が起こったのか。

公式ツイッターより

なぜ「コミュニケーションの断絶」が生じたのか

今回の当事者となる登場人物を整理してみる。

「制作者側」には、制作の最高責任者であるプロデューサーを筆頭に監督、脚本家がいる。そして「原作者側」は、原作者と出版社の担当編集者である。プロデューサーは監督や脚本家と意志疎通をおこなうが、通常、監督や脚本家が原作者と直接、会話をしたり意思疎通したりすることはない。つまり、制作者側と原作者側の意思疎通は、プロデューサーと原作者の間でおこなわれることが多いのだ。

原作者によっては「制作者側」と直接交渉をするのを厭う人もいるので、その場合は出版社の編集者が介在することになる。私の経験的な肌感覚では、小学館や講談社のようなマンガ雑誌を抱えている大手は、映像化の契約も含め出版社が代理人となることが多い。それは映像化によって出版物の販促を図れるという理由と同時に、出版社や編集者が作者ケアをちゃんとやっているというアピールの意図もある。

以上のような構図だと、どういった歪みが生じるだろうか。原作者の意図や思いが監督や脚本家に伝わらない、もしくはその逆が起こる可能性があるということだ。

脚本家もコミュニケーションの断絶の「被害者」

今回の場合も、芦原氏はブログで「脚本家さん、監督さんといったドラマ制作スタッフの皆様と、私達を繋ぐ窓口はプロデューサーの方々のみでした」と述べている。特に今回は出版社の編集者が介在していたということだから、私が過去に同じようなケースで遅々としてやり取りが進まずイライラすることがあったように、少なからずコミュニケーションの疎通を滞らせる要因になっていたと考えられる。