相手のペースに合わせて「待つ」余裕をもつ

生活のなかで「待つ」という場面は、度々あるものです。相手がゆっくり行動しているのを待つ。長い話が終わるのを待つ。つぎのお誘いが来るのを待つ。相手の返事を待つ。なかなか来ないメールの返信を待つ。また会える機会を待つなどなど。

そんな場面で「待てる人」「待てない人」がいるのも事実。当然、人のことを急かさずに「あなたのペースでね」と気長に待ってくれる人のほうが心地よいはず。

「待てる人」は、相手を変えようとしないので、気楽につき合えるのです。

たとえば、仕事で新人が「手間取ってごめんなさい!」と恐縮しているときに、にっこり笑顔で「ゆっくりでいいよ。最初はみんなそうだから」と待ってくれる人は、懐の深さを感じさせるもの。穏やかな雰囲気があって、自然に人が集まってくるでしょう。

反対に、「待てない人」は、ゆっくりしている人や状況に対してイライラします。くだらない話をする人にもイライラ、メールの返信が遅いことにもイライラ、結果が出ないことにもイライラ……。当然、話しかけづらい雰囲気が漂っているでしょう。

そんな人は、性格という面もありますが、世の中のさまざまなシステムが効率よくスピーディになった時代の空気に影響されて、ちょっとの時間も「待てない!」と苛立ちや焦りを感じやすくなっているのかもしれません。

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多くの人が結果が見えないことへの不安や、少しの時間も「こんなに待たされている!」と損をすることに耐えられなくなっているように感じます。

そんななかで「気長に待ちましょう」と構えられる人は、強くやさしい。待つことを楽しむ余裕さえあります。時間をかけてこそ得られる喜びや豊かさがあると知っているので、「待たされる」のではなく、自分の意志で「待つこと」を選ぶのです。

なにかを待つ時間は、本来豊かで、成熟していて、タイミングを調整していく時間。日々の生活に忙殺され、スピードに慣れきって、せっかちになりがちな現代人は、いま一度、人と人とのゆっくりしたスピードを意識してみる必要がありそうです。

「ちょうど」「たまたま」「ついでに」で心の負担を軽くする

空港から重い旅行バッグを抱えて、明日はどうやって自宅まで帰ろうかと思案していたとき、近所の友人からメッセージ。「明日、帰ってくる日よね?ちょうど空港の近くのお店に行く用事があるから、そのあと、車で迎えに行こうか?」。

「ちょうど」というのは、気軽に親切をしたりされたりするための彼女なりの気遣い。「わざわざ迎えに行く」という体だと、私が「それは申し訳ない」と恐縮することをわかっていて、「ちょうど用事があるから」と提案したのでしょう。真偽は不明ですが、「それは助かる! ありがとう!」と気軽に甘えることができたのです。

彼女はよく煮物やお漬物を「たくさん作ったから、もらって」と差し入れしてくれたり、「YouTubeでたまたま、面白い健康法を見たからシェアするね」とメッセージをくれたり。そのさりげない親切は負担にならない程度なので、つき合いがラク。

「この煮物作るの、結構、たいへんだったのよ」など“やってあげた感”があると、申し訳なく感じられて、こちらも遠慮するようになるでしょう。

「ちょうど」「たまたま」「ついでに」をさらりとやってのける人は、ほんとうにかっこいい。職場でも「コンビニ行きますけど、なにか買ってくるものありませんか?」とまわりに声をかけたり、「ちょうど時間が空いたので手伝いますよ」とたいへんそうな人をフォローしたりする人は、気軽に声をかけ合える関係になるはずです。

私はよく「たまたま○○さんの写真が出てきたので、どうしてるかなと思って……」などと、ご無沙汰している人に電話することがあります。すると、不思議なもので「あら、私もちょうどあなたのこと考えていた」ということが多いのです。

「ちょうど」「たまたま」「ついでに」は相手にアプローチするための口実だけではなく、その流れに乗ると、ものごとがスムーズにいく確率が高くなります。

「ちょうど同じ方向なので一緒に帰った」「たまたまとなりの席だったから、声をかけた」などタイミングが合って、自然につながりができていくこともあるのです。