これは「狭正面戦略」、すなわち、限られた正面に持てるリソースを注ぎ込み、いわゆる一点突破の全面展開をはかるべきだとした英第二一軍集団司令官バーナード・ロー・モントゴメリー英陸軍元帥の主張(それには、当然、自分の担当正面にあらゆる戦力を集中せよとの議論も含まれていた)と真っ向から対立するもので、しばしばあつれきの種となっていたのである。
米遠征軍最高司令官の機転
だが、さしものアイゼンハワーといえども、大河ラインを渡るにあたって、リソースを分散することはできなかった。連合軍戦線の北部に位置している英第二一軍集団を主攻部隊と定め、その戦域に砲兵・工兵部隊や上陸用舟艇、大量の物資を投入、一大渡河攻勢「掠奪(プランダー)」作戦を実行させることにしたのだ。しかも、この攻撃は、ライン川東岸を確保するための空挺作戦「大学代表チーム(ヴァーシティ)」によって支援される。
こうしてラインを渡河した英第二一軍集団は、ドイツ西部のルール工業地帯へ突進、これを占領して、第三帝国の継戦能力に致命的な一撃を与える。最終的な参加兵力は百万以上にのぼり、ノルマンディ上陸に匹敵する規模となる作戦であった。
その際、アイゼンハワーは、のちに重要な意味を持つことになる指示を出していた。万一にでも、ライン川に架かっている無傷の橋を見つけたら、それを最大限に活用し、対岸に橋頭を築くべしと補足していたのだ。
おそらく、彼自身、かような幸運はあり得ないと思いつつ、念のために述べておいたのであろうけれども、戦神(マルス)は、ある米軍部隊にとびきりのつきを与えていた。その部隊こそ、第一二軍集団指揮下にあった、米第一軍第三軍団に所属する第九機甲師団のB「戦闘団(コンバット・コマンド)」だった。
ヒトラーの厳命、乱れる指揮系統…ドイツ軍が撤退を繰り返した理由
このように経験を積み、戦力も充実したアメリカ軍に対し、一九四五年の西部戦線にあったドイツ軍は無惨なありさまとなっていた。アルデンヌ攻勢に失敗し、後退する過程で多数の将兵や装備を失った上に、その補充はままならない。
さらに、総統アドルフ・ヒトラーが、最後の一兵までライン川西岸を死守せよ、東岸への退却はまかりならんと厳命したことも、ドイツ軍の潰滅を早めることになった。
加えて、戦場がドイツ本土に移るにつれ、指揮の混乱も生じた。本国の軍事組織は、補充軍(エアザッツヘーア)司令官、すなわち、ハインリヒ・ヒムラー親衛隊全国長官の管轄となるから、野戦軍の指揮官たちが容喙することはできない。
ところが、ドイツ軍の戦線が後退し、補充軍麾下の新編・補充部隊が戦闘に参加せざるを得ない状況が生起したにもかかわらず、それらは野戦軍とは別の指揮系統で動き、有効に使用できないといった事態が多発したのである。