だから、まずはお客様の喜ぶことを考えようと思いました。お客様の不満や要望を聞かないことには、その喜ぶ顔も見えない。もっと言えば、人や社会の課題を解決することが会社の存在意義なのではないかとも思った。

ゼロ地点に立って、考えるべきことは山ほどありました。

ライバル企業の「100円ポテチ」に勝つには…

そんな理想や疑問、思いを小池孝会長に投げてみました。

3種類ののり(青のり、あおさ、焼のり)を使用した「プライドポテト 神のり塩」(写真提供=湖池屋)

小池会長からは、「もうちょっと具体的にならないの」などと言われつつも、「でも、いいんじゃない。創業者もアメリカ生まれのポテトチップスを居酒屋で食べて感動した。それを日本人の舌に合うように、のり塩を思いつき、みんなの喜ぶ顔を見たかったと言っている。一緒じゃないですか」とも言われた。

小池会長とはこのとき、徹底的に話をしました。

湖池屋が昔から北海道で契約栽培を続けてきたことで、じゃがいもの品質が極めて安定していること。その品質の圧倒的な差、しかも何万トンもの貯蔵倉庫が必要であることなどから、いくつもの会社がポテトチップスづくりに挑んできたもののあきらめて去っていったこと。

そして、そんな中で、現在のライバル社が100円で市場に入ってきて、価格競争を仕掛けてきたこと。しかもこの会社だけは覚悟が違っていたことなど、これまでの背景をこと細かにレクチャーされました。

徹底的に日本を掘ってみる

その一方で、湖池屋は「カラムーチョ」をつくったこととか、その後、「スコーン」や「ポリンキー」「ドンタコス」と世界の旨いものをヒントにしてアレンジし、立て続けにヒット商品を出していったということも熱く語られた。

「ピュアポテト オホーツクの塩と岩塩」(写真提供=湖池屋)

ただ、それがいま、うまくいかなくなってきたということだった。その状況を打破するためには、マーケティングに強く、商品軸を変えられる人が必要だという話でした。これまでの発想とは違うイノベーションが起きないとこの苦境は抜け出せない、という判断をされていました。このとき、小池会長からは、「何をやってもいい。支えていくから」と言われたわけです。

私は、世界からいろいろなものを持ってきてダメだったのなら、徹底的に日本を掘ってみよう、と思っていました。

と同時に、スナックという本業以外に手をつけるのはまだ早い。まずは、本業を立て直さないことには、本当の意味での湖池屋の復活はないと思っていました。

「湖池屋」を名乗り直す

私が入社したとき、湖池屋は「フレンテ」という社名でした。

ホールディングスとしてジャスダックに上場(2004年)するにあたって広がりをもたせたいということで、2002年に社名を変更していたのです。海外進出、後継者の養成などを想定してのことでした。

健康食品をはじめとする未来型の食品をつくることを想定したときに、「湖池屋」の名前が邪魔をする可能性があると、当時は考えていたようです。

1997年に発売された「ピンキー」という大ヒット商品があり、2002年には乳酸菌LS1を使用したタブレットの開発に成功したり、新分野に向かって大きく動いている時代でもありました。