安い値段で満腹になってもらいたい…学校の売店から広がった

福田パンは、福田社長の祖父である福田留吉氏が1948年5月に設立した。創業の地は本店のある盛岡市長田町。留吉氏は元々、酵母菌の研究者で、戦前はイースト製造会社で働いていたため、パンの製法には詳しかった。

ただし、戦後間もない時期、手に入る材料も限られていた。そこで砂糖などを使わないフランスパンから始め、徐々に品数を増やしていった。

1950年代に入ると学校の売店でパンを販売するように。学生に安い値段で満腹になってもらいたいという思いで、この頃にクリームやバターなどを挟んだ“コッペパン”を商品開発した。

撮影=プレジデントオンライン編集部
あん、ピーナツバター、抹茶あん、ブルーベリージャムなど、常時50種類近くのメニューから選べる。

なお、同社ではコッペパンとは言わない。一般的には細長く、真ん中に具材が入ったものをコッペパンというが、福田パンのそれは、ボテっと重厚感のある大きさで、柔らかい生地が特徴。昔からソフトフランスパンとして作っているため、今でも社内では「フランス」と呼んでいる。

学校に着ていく服がなかった幼少時代

取り扱ってくれる高校や大学などが増えていき、住み込みの従業員も雇えるようにはなったが、決して儲けが出るほどではなかったという。むしろ、子どもの頃は貧乏で苦労したと福田社長は吐露する。

福田パンの3代目社長・福田潔さん。(撮影=プレジデントオンライン編集部)

「小学生の時に悔しい思いをしたのが忘れられません。学校に着ていく服がなかったんです」

当時の子どもたちは学校指定の体操着で通学していたそうだが、例えば雨が続いて体操着が乾かないことがしばしばあった。替えの体操着を持っていないため、夏場に肌着の上にジャンバーを着て登校すると、先生からは「お前は馬鹿か」と叱られた。

福田パンはその頃、パンの材料費と社員の給料を払うと、会社にはお金が残らなかった。体操着を買う余裕などなかったのだ。

「家族には当然給料が出ません。両親はじいさんから食費だけをもらっていたようです。自由に使えるお金はなかったから、親父とお袋は店で余ったパンの耳を大きい袋に入れて、何百円かで売っていました。それを小遣いの稼ぎにして、私たち子どもに必要最小限のものを買い与えてくれました」

福田社長が覚えているのは、月末になると売り上げの小銭をかき集めて、祖父が銀行に支払いにいく光景だ。そのくらい自転車操業だった。