家康が行った一石二鳥の公共事業

秀吉恩顧の大名が全国で広大な領地を所有しているとは、どんな状況か。

笠谷氏は「関ヶ原合戦と大坂の陣」(笠谷編『徳川家康 その政治と文化・芸能』所収)に、「加藤清正、福島正紀、浅野幸長といった豊臣恩顧の武将たちは将軍家康の統率には従ったけれども、それは豊臣家を見限って家康の家臣となったのではなく、豊臣家と秀頼に対する忠誠心は保持したうえで家康の征夷大将軍としての軍事指揮権にしたがっているのである」と書く。

大名たちの忠誠心が秀頼に向けられている以上、徳川と豊臣のあいだに有事が発生すれば、強大な勢力となった豊臣系大名たちは、徳川に反旗をひるがえす可能性が低くない。しかも、彼らはほぼ例外なく、関ヶ原合戦後に居城を大規模に整備し、あるいはあらたに大城郭を築き、支城網を整え、むしろ軍事的な緊張は高まっていたのである。家康が緊張を強いられたのも無理はない。

そこで家康は大坂包囲網の整備を進めた。それは関ヶ原合戦の翌慶長6年(1601)、琵琶湖に突き出た膳所城(滋賀県大津市)の築城からはじまった。東海道が通る瀬田の唐橋を押さえる位置にあるこの城に、大坂城を発った豊臣軍が東に進むのを阻止する目的が課せられたのはいうまでもない。その際、家康が採用したのは、諸大名に築城工事を割り当てる「天下普請」だった。

天下普請は軍役のひとつだから、大名はすべて自費で工事に当たらなければならない。家康はこうして、豊臣系大名たちの築城技術を利用して堅固な城を築き、同時に彼らの経済力を疲弊させるという一石二鳥をねらったのである。

なぜ名古屋城は巨大なのか

続いて家康が、同様の天下普請で築かせたのが彦根城(滋賀県彦根市)だった。東山道と北国街道が交わる彦根は、陸路においても湖上においても交通の要衝で、有事の際には江戸に向かう豊臣軍を食い止め、各街道から西上する徳川軍を掩護するのにふさわしい位置だった。家康は7カ国12大名に天下普請を命じ、慶長9年(1604)から築城工事が開始された。

天下普請はほかにも、関ヶ原合戦の前哨戦で炎上した伏見城の再建や、徳川家の京都における拠点、二条城の築城、そして慶長11年(1606)からは江戸城の整備においても、大々的に行われた。

むろん、大坂包囲網の構築も着々と進められた。山陰道の要衝を押さえ、西国の諸大名の東上を防ぐ目的で、慶長14年(1609)は篠山城(兵庫県丹波篠山市)が、同様の理由で慶長15年(1610)には亀山城(京都市亀岡市)が完成。

そして、天下普請による大坂包囲網および江戸の防衛網の決定打が、慶長15年から加藤清正や黒田長政ら、豊臣恩顧の20大名に助役を命じて築かれた名古屋城だった。大坂城に匹敵するほどの大城郭を、20万人もの人夫を動員してたった1年で築いてしまった。これも家康の焦りの表れだといえよう。

名古屋城(写真=Alpsdake/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

また、家康が将軍職を秀忠に譲ったのち、実権を握ったまま大御所政治を行った駿府城も、慶長12年(1607)から天下普請で築かれた。家康はこの駿府城を、豊臣軍が西上してきた場合に、江戸を守る最後の防衛ラインに想定していたようだ。