1615年、徳川家康は大坂夏の陣に勝利し豊臣家を滅ぼした。歴史評論家の香原斗志さんは「豊臣方は家康の寿命が尽きるのを待っていた。時間を稼ぐために策を講じたがすべて失敗に終わった」という――。
NHK大河の「方広寺鐘銘事件」の描き方は史実とは異なる
大坂の陣勃発のきっかけが、方広寺の鐘銘問題だったことはよく知られる。豊臣秀頼が京都の方広寺の大仏と大仏殿を再建した際に納めた梵鐘に、「国家安康」「君臣豊楽」の文字が彫られていたため、徳川方が、「家康」の文字を二つに刻んで呪詛しているとクレームをつけたのだ。そこから短時日のうちに決戦へと進んでいった。
この鐘銘が戦国最後にして最大の戦の導火線になったのは、なぜだったのか。それを解くと、徳川方と豊臣方、それぞれがなにを望んでいたのか明瞭に見えてくる。
NHK大河ドラマ「どうする家康」では第46回「大坂の陣」(12月3日放送)で、次のようなやりとりが描かれた。鐘銘の件について駿府(静岡市)の徳川家康(松本潤)のもとに弁明に行き、大坂城に戻った片桐且元(川島潤哉)が、大野治長(玉山鉄二)に向かって「修理(治長)、わかっておってあの文字を刻んだな?」というと、治長は「片桐殿が頼りにならんので」と返答した。
要するに、治長すなわち豊臣方は徳川方を怒らせる目的で、意図して「国家安康」「君臣豊楽」の文字を彫らせたという流れだった。その証拠に、第45回「二人のプリンス」(11月26日放送)では、銘文案を見た茶々が「おもしろい」といって不敵な笑みを浮かべていた。
しかし、豊臣方があえて鐘銘で徳川方を挑発した、という解釈は史実に反する。豊臣方にとっては時間稼ぎが必要で、戦を誘発しようと望んだはずがないのである。
では、なぜあのタイミングで、鐘銘問題を機に大坂の陣が勃発したのか。それを理解するために、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以降の、家康の考えやねらいと、その変化を追っておきたい。