西は豊臣、東は徳川でいい

関ヶ原合戦は天下分け目の戦いというよりは、豊臣政権が内部分裂した結果、起きたものだった。朝鮮出兵をめぐる、武功派と、豊臣秀吉の命を受けて彼らの落ち度を指弾する石田三成ら奉行衆との対立である。したがって家康は、徳川軍の主力を率いる嫡男の秀忠が関ヶ原に遅参したこともあるが、豊臣系大名たちの軍功のおかげで勝てたのだった。

このため、西軍に属した大名から没収した領地630万石余りのうち、520万石が豊臣系大名にあてがわれ、とくに西国は80%が豊臣系大名の領地となった。それでも、豊臣系の領地のあいだに徳川の譜代大名を配置すれば日常的に監視できるのに、家康は西国に徳川系大名を一人も置かなかった。近江(滋賀県)佐和山(彦根市)の井伊家より西には、徳川系が一人もいなかったのである。

笠谷和比古氏は「このような西国方面に特徴的な領地配置の意味するものは、この方面に対する家康および徳川幕府による直接的な統治を差し控えるという態度の現れだと考える」と記し、それを東西に二つの公儀が並立する「二重公儀体制」と呼ぶ(『関ヶ原合戦と大坂の陣』吉川弘文館)。

家康は関ヶ原合戦後、「豊臣家を超えて」大名を支配したが、それは「家康個人のカリスマ的力量」による支配にすぎない。だから、豊臣公儀に代わる徳川公儀を構築すべく征夷大将軍の座に就いたが、将軍とは全領主への軍事的統率権を有する軍事職。「他方、関白は天皇の代行者として日本全国に対する一般的な統治権的支配の権限を有する存在であるがゆえに、権限論的には将軍と並立する形で、武家領主一般に対する支配を行使しうるとする考えが成立ちうる」と笠谷氏は書く。

つまり、関ヶ原合戦から大坂の陣までは、「将軍たる家康の意命に服しても、潜在的に関白職に就くべく予定されている豊臣秀頼の臣下として、従前通りあることは充分に両立しうることとする観念」(笠谷氏)が形成され、家康はそれでよしとしていた、というのである。

徳川家康肖像画
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

秀忠では「二重公儀体制」は機能しない

もう少し笠谷氏の論にしたがって話を進めたい。家康は「二重公儀体制」を安定させるために、孫の千姫を秀頼に嫁がせ、もう一人の孫の和子まさこを後水尾天皇に嫁がせようとした〔これは家康死後の元和6年(1620)に実現した〕。こうして徳川が天皇の外戚になれば、豊臣家をつぶさずとも、西国の大名が徳川に弓を向けることはない、という考えだ。

しかし、年を重ねるにつれ、家康は考えてしまったはずだ。家康というカリスマがいればこそ「二重公儀体制」は機能するが、死後はどうか。朝廷の官職は2代将軍秀忠より秀頼のほうが上で、加藤清正、福島正則、浅野幸長といった秀吉恩顧の西国大名たちにとって、秀忠に従うべき義理はない。しかも、秀忠には関ヶ原に遅参したというマイナスイメージが付着している。

家康が没するやいなや、豊臣の関白政権が復活する芽は大いにある。笠谷氏は書く。「彼(家康)が自己の死と、徳川の行く末に思いを馳せめぐらせたとき、もはやきれいごとでは済まされなくなってしまったということであろう」。

とはいえ、豊臣家を滅ぼすか、無力な一大名の地位に追い込むには、西国大名に有無を言わさないだけの強大な軍事力が要る。その点で家康には幸運が重なった。慶長16年(1611)6月に加藤清正が急死し、同18年(1613)8月には浅野幸長も死去。秀頼が信頼できる秀吉恩顧の武将3人のうち2人が失われ、彼らに次いで豊臣家への思いが深い池田輝政と前田利長も没した。

そんなタイミングで発生したのが鐘銘事件だった。