執念が家康に天下をもたらした

冬の陣における和解後、伊達政宗は堺の商人の今井宗薫に宛てた書状に、秀頼がすぐに大坂城を明け渡して大和(奈良県)か伊勢(三重県東部)に移り、大坂城にいる牢人をみな解雇しないかぎり、豊臣が生き残る道はない旨を書いている。

その判断は大坂にも伝わったはずだが、大坂方は耳を貸さず、再戦も辞さない構えだった。しかし、堅城たる大坂城がもはやなく、戦う余地はないはずだったが、なぜなのか。

「寿命」を恐れる家康は急いでおり、慶長15年(1615)4月4日には、名古屋城主の九男、義直の婚礼への列席を理由に駿府を発った。そもそも3月末には諸大名に動員令を出していた。ところが、4月5日には、すでに家康が発った駿府を大野治長の使者が訪れ、秀頼の移封を免じてほしいと懇願し、秀頼も義直の婚礼に祝意を表すなど安閑としていた。

豊臣方の認識はあまりにもぬるい。それもやはり、ひたすら時間稼ぎをしようとしていたからだと思われる。

「家康の寿命」をめぐる駆け引き、そして根比べは、家康の執念の圧勝で終わったのである。

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