「方広寺鐘銘事件」の犯人
方広寺の梵鐘の銘を書いたのは東福寺の僧の清韓で、清韓自身が鐘銘に「家康」の文字を隠し題のように織り込んだと認めている。だから徳川方による難癖とはいえない。家康の名を鐘銘に無断で使用したのは、豊臣方の落ち度である。さりとて「どうする家康」で描かれたように、豊臣方が徳川方を挑発したとは考えられない。
その理由は曽根勇二氏が『大坂の陣と豊臣秀頼』(吉川弘文館)で端的に述べている。「大坂方の片桐且元が徳川方との調整を重視したのは、家康の寿命を考慮しながら、さらに朝廷や諸大名との交流を継続することによって、後継者の地位を獲得する計画でもあった。大坂方の立場からすれば『時間かせぎ』の戦略も必要であったのである」。
家康は方広寺の鐘銘問題が起きた時点で数え73歳。当時としてはすでにかなりの長寿だから、家康は、もしこのまま命が尽きたら、と気が気ではなかっただろう。一方の豊臣方には、家康の命はじきに尽きるから、そこまで耐えれば、という思いがあった。
だから、豊臣方が徳川方を挑発することはありえなかった。双方が同じ「家康の寿命」をめぐってぎりぎりの駆け引きをしていたのである。そこに発生した鐘銘問題は、徳川方にとっては、豊臣をつぶすためのまたとない機会となり、豊臣方にとっては、意に反して戦闘を避けられない事態に追い込まれることになった。
なぜ堀の埋め立てを許したのか
しかし、大坂の陣が勃発してもなお、豊臣方は「家康の寿命」に期待をかけていた。それは冬の陣の和睦の内容にも表れている。和睦の条件が大坂城の堀を埋めることだったのはよく知られる。
これまでは、総構(外郭)の惣堀だけを埋めるという約束だったのに、徳川方が「惣」の字を都合よく「すべて」と解釈し、本丸以外のすべての堀を埋めてしまった、といわれてきた。しかし、種々の一次資料から、いまでは本丸を残して、ほかの堀はすべて埋めることが最初からの了解事項だったことがわかっている。
しかし、大坂冬の陣で大坂方が敗戦に至らなかったのは、幾重にも堀に囲まれた大阪城が難攻不落だったからである。なぜ大坂方は、自殺行為にほかならない堀の埋め立てを許してしまったのか。
史料から確認できるのは、二の丸や三の丸の破却と堀の埋め立ては、豊臣方がみずから行うことになっていた、ということである。ところが、豊臣方の工事はなかなか進まない。ここでも豊臣方は、のんびり進めれば「家康の寿命」が、という期待をかけていたフシがあるが、徳川方は諸大名に命じて一挙に埋め立ててしまった。
曽根氏は記す。「大坂・徳川方の両陣営では、互いに堀の埋め立てが了解されていたものの、何とか時間を稼ごうとした大坂方に対し、一気に時間を縮めた徳川方の戦法勝ちであった」(前掲書)。