成功だったのか、失敗だったのか

福田千鶴氏は、会見の終わりに家康が述べたという以下の話を重視する。『慶長之記』に記されたその内容は、秀吉の遺言で秀頼が15歳になったら天下を渡す約束だったが、秀頼こそ関ヶ原合戦で起請を破り、家康を退治しようとしたのだから、その約束を反故にされても仕方ない――。

豊臣秀頼像
豊臣秀頼像(写真=養源院所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

福田氏はこれについて、「秀頼の親族後見人の立場を抜け出せないでいた」家康だが、「合戦から十年を経て、ようやく秀頼守護を名目に秀吉恩顧の大名を動員し得たという事実を過去のものとし、合戦が生じた原因は起請を破った秀頼側にあると難癖をつけ、成人した秀頼に天下を渡さないことの正当化を図ったのである」と記す(『豊臣秀頼』)。

大河ドラマでは、この対面の結果、秀頼の評判が高まって家康は無礼であると評判を落としたという、少々不可思議な描き方をする。だから大坂の陣が必要になった、という話の展開になるようだ。

しかし、大坂の陣にいたった経緯は、そんなに単純な話ではない。家康は関ヶ原合戦の直後から、秀頼包囲網を少しずつ周到に張りめぐらせ、追い詰めるだけ追い詰めての大坂の陣だった。

二条城での会見も、家康自身は秀頼との関係にこれで決着がついたと思わなかったにせよ、世間はこの対面をとおして、家康が秀頼の臣従化に成功したと評価した。その意味でこの会見は、大河ドラマが描くような「失敗」ではなく、「成功」だった。

そのうえで家康は、後水尾天皇即位の当日である4月12日、在京の諸大名を集め、三カ条の条々を示し、起請文を書かせた。源頼朝以来の法令に触れながら、将軍が出した法令を固く守るように誓わせたのである。

天下統一には程遠い状況

とはいえ、家康はこうして天下を治める地歩を固めながら、かなり緊張を強いられていたはずである。先に引用した福田氏の説明のなかに、「秀頼守護を名目に秀吉恩顧の大名を動員し得たという事実」という文言があった。それこそが緊張の理由だった。

笠谷和比古氏は『論争 関ヶ原合戦』にこう記す。「関ヶ原合戦における家康方の軍事的勝利に対する豊臣系武将たちの貢献度は絶大であり、さらには、投入が予定されていた秀忠ひきいる徳川主力軍の遅参という不測の事態によって、その貢献度はさらに飛躍的に高まることになった」。

家康は上杉討伐のために自分に従軍していた豊臣系武将たち、すなわち「秀吉恩顧の大名」の働きのおかげで関ヶ原合戦に勝利した。しかも秀忠が戦場に遅参し、徳川軍に出る幕がなかったため、なおさら秀吉恩顧の大名たちの貢献度が増した、ということだ。

このため戦後、豊臣系の諸大名に大幅な加増をするほかなかった。関ヶ原合戦後、当時の日本の総石高の約40%にあたる780万石が、西軍にくみした大名や豊臣家の直轄領から没収され、その7割近い520万石余りが豊臣系諸大名への加増にあてられた。こうして、豊臣系の国持大名の領地は全国20カ所以上に分布し、こと西国にいたっては、ほぼ8割が豊臣系大名の領地になってしまった。