京都市の養源院などには、徳川家康の家臣・鳥居元忠らが絶命した際の床板を天井に張り替えた「血天井」がある。歴史評論家の香原斗志さんは「鳥居元忠が絶命した伏見城の戦いでは、城を守る1800人全員が討ち死にした。この石田三成の残虐な振る舞いが、徳川家康らを発奮させて、関ヶ原合戦の勝敗にも影響を及ぼした」という――。
「逃げることは許されぬ。必ず守り通せ」
「万が一の折、要となるのはこの伏見。留守を任せられるのは、もっとも信用できる者。逃げることは許されぬ。必ず守り通せ」
謀反の風聞が立つ会津の上杉景勝(津田寛治)討伐に出発する主君の徳川家康(松本潤)からそう告げられ、伏見城(京都市伏見区)を託された鳥居元忠(音尾琢真)は、「上方は徳川一の忠臣、この鳥居元忠がお守りいたしまする」と答えた。NHK大河ドラマ「どうする家康」の第41回「逆襲の三成」(10月29日放送)。元忠がこのとき流した涙に、視聴者の多くは、家康に仕えて半世紀になるこの忠臣がまもなく、壮絶なドラマに襲われると察したのではないだろうか。
家康が上杉討伐のために大坂城(大阪市中央区)を発ったのは慶長5年(1600)6月16日のこと。2日後の6月18日、伏見城に立ち寄って鳥居元忠に城を託した。一次資料ではないが『名将言行禄』には、このときの2人のやりとりが記されている。家康が多くの兵を残せないことを詫びると、元忠は「会津は強敵なり、一人も多く召具せられ然るべし、伏見には某一人にて事足り候(上杉は強敵なので、1人でも多く連れて行ったほうがよく、伏見は自分一人で大丈夫だ)」と答えたという。
結論を先にいえば、1カ月半後の8月1日、鳥居元忠は命を落とした。そして彼の壮絶な死のあとは、じつは、いまも京都市内で見ることができる。元忠らの血が染みこんだ伏見城の床板が、正伝寺(北区)や養源院(東山区)など徳川ゆかりの寺の廊下に「血天井」として張られているからである。
いったいなにが起きたのか。それを理解するために、伏見城についての説明からはじめたい。