関ケ原の戦いのきっかけ

家康は慶長5年(1600)7月2日にいったん江戸城(東京都千代田区)に入り、家康に従う豊臣系の武将たちも江戸に集結。その後、榊原康政率いる先発隊は13日、嫡男の秀忠は19日に江戸を発ち、遅れて21日には家康も、江戸を発って会津に向かった。

ところが、その間に上方の情勢は激変していた。石田三成は7月10日ごろ、会津に向かおうとしていた大谷吉継を、自身が引退生活を送っている佐和山(滋賀県彦根市)に呼び寄せ、挙兵計画を打ち明けて協力を取りつけた。

とはいえ、この時点では三成の行動に大坂は同調していない。7月12日には、三奉行(すでに五奉行から三成と浅野長政が抜けていた)のひとりの増田長盛は、家康側近の永井直勝に宛てて、三成と大谷吉継が不穏な行動をとっていると告げている。また、同じ日に茶々と三奉行から、三成と吉継に謀反の動きがあるので沈静化のために急ぎ戻るように、という書状が家康に出されている。

ところが、その後、三成と吉継が増田のほか長束正家、前田玄以の三奉行を説得。茶々もそれに同調し、討伐すべき相手が家康へと転換する。7月17日には、家康の非道を13カ条にわたって記した「内府ちがひの条々」が、三奉行の添え状をともなって全国の大名に送られた。三成に導かれた大坂方の勢力は、こうして家康に宣戦布告をするのである。

三成方の軍勢が、鳥居元忠が守る伏見城を取り囲みはじめたのは、「内府ちがひの条々」が出された翌日の7月18日で、この日に元忠から家康のもとに、伏見城が攻囲された旨が書かれた書状が送られている。

1800人対4万人の結果

鳥居元忠は「どうする家康」でイッセー尾形が演じた鳥居忠吉の三男で、家康より3歳ほど年上だったとされる。幼少時から家康に仕え、忠吉の長男が戦死するなどしたために家督を継ぎ、主要な戦いにはほとんど参戦。早い時期から軍団長として家康から権限が委譲されてきた。

天正18年(1590)に家康が関東に転封になると、下総(千葉県北部と茨城県南部)の矢作(千葉県香取市周辺)に4万石をあたえられている。常陸(茨城県北東部)の佐竹氏や東北の諸大名に備えるために重要な地で、それだけ家康に買われていたといえるだろう。

そんな元忠が発した前述の書状が家康のもとに届いたのが7月24日で、翌25日、家康は諸将を集め、このまま上杉討伐に向かうか、反転して三成を討つかを質し、三成の討伐に向かうことを決める。

だが、その間も、鳥居元忠が守る伏見城は、宇喜多秀家、島津義弘、小早川秀秋らに取り囲まれ、23日には毛利輝元配下の1万が加わり、総勢4万の軍勢によって攻城された。もっとも、秀吉が権力と財力に飽かせて築いた城だから、簡単に攻め落とせるわけではなかったが、元忠率いる守備兵は1800にすぎず、城内の防衛は行き届かない。

8月1日、三成方に内応した兵士が城内に火を放つにおよんで、ついに包囲軍は城壁を乗り越えて城内に一気に攻め込んだ。その結果、最後まで戦った元忠も鈴木重朝(いわゆる雑賀孫一)の槍に突かれて討たれ、三百数十名の武士たちが城内で切腹して果てた。