徳川家康は豊臣秀吉の子・秀頼をどう見ていたのか。歴史評論家の香原斗志さんは「死の直前まで恐れていた。だから、関ヶ原の戦いが終わった直後から、大坂城の周りにある交通の要所に堅牢な城を多く築いた」という――。

家康と秀頼が対面した「二条城会見」で起きたこと

慶長8年(1603)に征夷大将軍に任官して以降、徳川家康にとってひとつの画期になったのは慶長16年(1611)だった。この年、3月27日に後陽成天皇が譲位し、4月12日に後水尾天皇が即位した。このころ家康は駿府城(静岡県静岡市)でいわゆる大御所政治を行っていたが、3月6日に駿府を出発し、17日に上洛した。

家康は後陽成天皇譲位の翌3月28日、19歳になった豊臣秀頼を大坂城から二条城へと呼び寄せ、対面している。その模様はNHK大河ドラマ「どうする家康」の第45回「二人のプリンス」でも描かれる。

二条城
二条城(写真=Keith Pomakis/CC-BY-SA-2.5/Wikimedia Commons

前日に大坂城を発った秀頼は、織田有楽斎、片桐且元、大野治長ら30人ほどに御供されて船で淀川を遡上そじょうし、鷹狩りを楽しみながら船中で一泊。翌日、淀で船を下りて京都に向かった。家康の九男義利(のちの義直)と十男頼将(のちの頼宣)が、それぞれ浅野幸長と加藤清正をしたがえ、鳥羽まで出迎えに行っている。

秀頼が二条城に到着すると、家康は庭上で丁重に出迎え、挨拶を対等にするように申し出たが、秀頼は遠慮して、自分から先に礼をとった。2時間ほどの会見には、美麗を尽くした膳が用意されていたが、遠慮がちになるだろうからと吸い物だけが出されている。途中から高台院(秀吉の正室の北政所)とも対面。その後、二条城を出た秀頼は、豊国社と方広寺の大仏を訪れ、伏見から淀川を下ってその日のうちに大坂城に戻った。

この対面の目的は、秀頼が徳川の城である二条城までわざわざ出向き、家康に御礼をした、すなわち臣下の礼をとった、と世間に示すことにあった。