死の直前まで焦っていた家康

こうしたことを着々と整備したうえで、家康は秀頼と対面し、その立場の逆転をはかったのである。その結果、大河ドラマが描くように、むしろ秀頼の評判が高まったということはなく、家康の天下人としての地歩は、ある程度固まったものと思われる。

だが、それでも、豊臣家の権威が失われたわけではなかった。親王や公家、門跡などは正月のたびに大坂に、年賀のために下向した。また、前述のような天下普請が秀頼に課せられることは、一切なかった。やはり前述した、秀頼との対面後に家康が諸大名に誓わせた起請文に、秀頼は署名しなかった。すなわち、豊臣家が他大名と並列の、たんなる一大名ではないこともまたあきらかだった。

それが次第に老い先短くなってきた家康の、さらなる焦りにつながった。家康がたびたび求めたように、秀頼が大坂城を明け渡して大和郡山(奈良県大和郡山市)あたりに移ることを受け入れたら、家康の焦りは沈静化したかもしれない。だが、秀頼も淀殿もそれを受け入れなかったため、大坂の陣を迎えるのである。

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