「運まかせ」にしたほうがよいこともある

物事には人間の力ではどうにもならないことがあります。天変地異てんぺんちいなどはその典型ですが、身近なところにも力の及ばないことはあるのです。

それらは運まかせにするしか仕方のないことなのですが、ともすると、それを受け容れられないで悩むことになったりします。

その一番いい例が、健康でしょう。普段から人一倍健康に留意し、年に一度の人間ドックはもちろん、日々の食事にも睡眠にも運動にも、でき得るかぎりの注意を払っている人が、健康面で万全かといえば、そうともいえません。

病気になるときはなるし、ガンにおかされるときは冒されるのです。それは織り込み済みでいなければ、悩みを一つ抱え込むことになります。

「あれほど健康には気をつけてきたのに、よりによって、この自分がガンになるとは! いままでの努力は何だったんだぁ〜」

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悩みは、恨み、つらみにもつながりそうです。何かに向けて努力することは大切なことですし、努力しないよりよい結果がもたらされることも事実ですが、努力すれば、必ず望みどおりの結果になる、とはかぎらないのです。

恋愛だって、思いを寄せる人の心をつかむために、精いっぱい頑張っても、相手が振り向いてくれないことはザラにあります。

相手もこちらを憎からず思っているのに、そのときたまたま付き合っている人がいた、といったケースは、まさしく運が味方してくれなかったというしかありませんね。

「思ったとおりにならなかったけれど、ま、運がなかったということだな。そのうちよい運もめぐってくるさ」

そんなふうにとらえられたら、仮にベターの結果さえ得られなかったとしても、悩みに陥ることはなくなるのではないでしょうか。

相手の気持ちを変えようとするのは思い上がり

人間関係の中には大きな錯覚さっかくがあります。人の気持ちは変えられるという思い込みがそれです。

はっきりいいましょう。自分の対応次第で相手の気持ちを変えたり、相手を説得できると考えるのは、思い上がりです。

たとえば、私が著書で展開している考え方を批判したり、議論を挑んでくる人がいます。

その人たちの目論見もくろみは、自分の論で私を論破する、つまりは、私を説き伏せ、「あなたのおっしゃるとおり。私が間違っていました」といわせることにあるわけです。

しかし、私は決して説得されることはありません。

もちろん、引用した数字が間違っているとか、誤字脱字があるとか、事実誤認があるとか、そういうことなら、私は素直に「そのとおりでした。申し訳ありません」と頭を下げます。

しかし、「和田の理論は間違っている。なぜなら、過去にこういう学者がまったく違う理論を展開しているからだ」といった論法は痛くもかゆくもありません。

それは単にその人が過去の学者の理論を信奉している、ということでしかないからです。

私はそんな古い学説は現状にそぐわないと考えるから、私独自の理論を打ち出しているのです。当然ながら、説得されるわけもない。

もちろん、逆もまた真ですから、私は誰かの理論なり、考え方なりを、そうした論法で説得しようとは思ったこともありません。

論争とまではいかなくても、普段の会話の中で意見の食い違いはあるでしょう。みなさんの経験で、誰かの思いや考えを「違うよ」と指摘して、相手がそれを変えたことがあるでしょうか。あっても、ごくまれなケースではないかと思います。

変えるどころか、相手はますます自分のいったことに固執こしつして、意固地いこじになるというのが、通常のなりゆきです。それほど、人の気持ちを変えるのは難しいのです。その試みはほとんど徒労といってもいい。

相手の気持ちを変えようと一生懸命になっているのに、なかなか変えてくれなくて悶々もんもんとして悩む、といった話を聞きますが、それが無駄骨に終わるのは必然。そのことを心得ていれば、わざわざ悩みを引き寄せることもないのです。