評価を気にして悩むのは、建設的ではない
人間というものが人とのかかわりの中で生きている以上、周囲の評価がまったく気にならないという人はいないでしょう。
誰だって、いい人、素敵な人、と思われるほうが、嫌なやつ、ダサいやつ、と見られるよりうれしいに決まっています。
評価が低いと感じたら、なんとかその上昇をはかりたいと思う気持ちもわかります。
しかし、人の評価というものも、なかなかに変えがたいのです。ですから、評価を気にして悩むのは、建設的とはいえません。
「どうも、みんなから嫌われているみたい」
そう感じている人が、評価を変えようと悩んで、好かれるために、周囲の人に擦り寄ったり、おもねったりしたとして、はたしてうまくいくでしょうか。
「なぁに、彼(彼女)、急にへいこらして。いかにも見え透いてて、なんか嫌な感じ」
こうなるのがオチでしょう。付け焼き刃は、たいがい見透かされます。
人からの評価は変わったらラッキーと思う
ただし、嫌われていることについて、自分に思いあたるところがあって、それを改めようという意志がある場合は、自分が変わることで評価が一変することはあるでしょう。
たとえば、まわりに挨拶もロクにしない、態度が横柄、言葉に気配りが足りない、といった人が、そのことに気づいて、一念発起して、自分からちゃんと挨拶する、腰を低くする、人を傷つける言葉を慎む、という人に変わったら、周囲の視線は好感を持ったものに変わるかもしれません。
いずれにしても、前提は「人の評価はそう易々と変わるものではない」というところに置くべきです。そのうえで、評価を変えるためにできることがあったら、コツコツやっていけばいいのです。
そして、変わったらラッキーと思うこと。その心構えでいれば、いたずらに評価に惑わされることも、振りまわされることもないですよ、きっと……。