ときどき、「皇室の存在そのものが差別の根源であるから、男女平等を皇室に適用しろ」と言い出す人がいます。しかし、それを言うなら、「男が皇后になれないのは差別ではないか」と言わなければ、おかしい話になります。

皇位継承問題と男女平等は関係ありません。これは女系派でも、所功、笠原英彦のような見識のある先生は、固く戒めています(所功『皇室典範と女帝問題の再検討』(國民會館、二〇〇二年)四四~四五頁。笠原英彦『女帝誕生 危機に立つ皇位継承』新潮社、二〇〇三年、一八五~一八六頁)。

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継体天皇の崩御後に起きた皇位継承の重大危機

では、本筋に。

第二十六代継体天皇は、豪族たちが「この人に天皇になってもらおう」と話し合う、群臣評議によって即位が決められた、豪族連合政権の首班のような立場の人です。政権は不安定ですが、仕事はちゃんとやっています。

朝鮮半島は日本と目と鼻の先の要衝です。この地が安定しないと、敵に攻め込まれます。古代日本人は、東北よりも先に朝鮮経営に取り組みます。従わない東北人より、攻めてきかねない半島(とその先の大陸)勢力への対応の方が重要ですから。教科書には、時の大政治家だった大伴金村が賄賂をもらって朝鮮半島の領地を現地朝鮮人に売り飛ばしたなどという話が載っていたりするのですが、本書ではマイナー・エピソードなので放っておきます。

メインストリームは皇位継承です。継体天皇が崩御し、長男が継承して第二十七代安閑天皇となります。継体天皇が即位してからの年数です。「二十五年春二月七日、継体天皇は安閑天皇を即位させられた。その日に天皇は崩御された」(前掲『日本書紀(上)全現代語訳』三六九頁)という経緯で、譲位の即日崩御と解釈できます。これが譲位の初例だと言う人もいます。

徹底的に男系を補完した

安閑天皇は立太子の時に四十八歳だったと伝わりますが、立太子と呼ばれる儀式が本当にあったかどうかは不明です。当時は天皇が「次はおまえだ」と言えば、儀式などしなくてもそう言われた人は皇太子でした。当時どころか、近世でもそんな事例がありますが、その話は続々編の『嘘だらけの日本近世史』を出せた時に!