軍略に優れ、重要局面で家康にたびたび進言

永禄10(1567)年の「三備」改革で、忠次は東の旗頭に任じられ、旗下には東三河の国衆や松平一族が附けられた。忠次は戦略眼にすぐれており、合戦では先鋒を務めたり、先遣隊として派遣されたりすることが多かった。徳川家臣団では他の家臣とは別格、家康に次ぐナンバー2の存在だったのだ。

永禄8(1565)年3月(一説に6月)に今川方の拠点・吉田城(愛知県豊橋市今橋)が開城すると、忠次は吉田城の城代に抜擢される。単に城を預かっただけではなく、「酒井忠次は寺領安堵や不入権付与という、いわば大名権力に属するような権限」を与えられていた(『徳川権力の形成と発展』)。

永嶌孟斎『徳川家十六善神肖像図』(部分).国立国会図書館デジタルコレクション

やや古い書籍ではあるが、1958年刊『徳川家康文書の研究(上巻)』で収録された書状のうち、本能寺の変以前で徳川家臣が関わった33件のうち、おおよそ3分の1にあたる10件に忠次が関わっている(本能寺の変後は武田旧臣に対する宛行状が異様に多いため、それ以前で集計した)。次いで、石川数正が7件、石川家成・榊原康政・大給松平真乗が3件ずつである。

大名並みの権限を付与され、外交でも手腕を振るう

たとえば、永禄4(1561)年の東三河の国人領主あての書状に「なお左衛門尉可申入候」との文言があり、家康の書状を携えて詳細を伝達している様がうかがわれる。また、永禄12(1569)年の遠江の国人領主等が家康に降った際に誓書を交わしたりしている。

外交面でも忠次は徳川家臣を代表する立場にあった。永禄11(1568)年12月、武田信玄は駿河へ侵攻するにあたって家康と駿遠分割の約定をせんがため、穴山信君を酒井忠次の許に派遣している。

しかし、家康は信玄を牽制するために上杉謙信との同盟を試みた。翌永禄12年2月、家康は上杉家臣・河田豊前守長親と音信を通じた。当時は相手の家臣を通じて書状のやりとりをすることが多かったからだ。当然、謙信からは忠次等に書状が送られた。元亀元(1570)年に謙信の使僧が浜松を訪れ、酒井忠次、石川家成・数正に謙信の思いを伝えた。同元亀元年10月、家康はそれを受けて謙信に誓書を送り、酒井忠次が村上源五国清に謝状を送っている。