大河ドラマに出てきた「海老すくい」の芸は史料にも残る
忠次はユーモア溢れる性格だった。三方原の合戦は年末の12月22日に開戦。両軍が睨み合いの状況で翌年の正月を迎えた。その後合戦に勝利した武田軍が「まつかれて たけたくひなし あしたかな」との落首をしたためた。松(旧姓・松平)が枯れて、竹(=武田)が「たくひなし」(類なしの旧仮名遣い)という句で、さすがの徳川家中もうなだれた。
忠次(家康という説もある)はこれを見て「ひ」に濁点をつけ加えた。「たけた(武田)くび(首)なし」と一発逆転の句になって、みなは歓声を上げ、場が大いになごんだという。
長篠の合戦の勝利で、忠次は信長より薙刀(陣羽織、もしくは忍轡という説もある)を下賜される栄誉に浴し、「汝は後ろにも目が付いているようだ」と褒められる。すると、忠次は「いえ、(正面を向いたまま)後ろを見ることはできませんでした」と答えて笑いを誘った。
また、天正14(1586)年3月に家康が北条氏政と会見した時、忠次は酒宴で海老掬いという滑稽な宴会芸を披露したという。仕事が出来て、宴会も盛り上げる。昭和の営業マンなら満点だったに違いない。
家康の嫡男・信康を死に至らしめたというのは本当か
天正7(1579)年に家康の嫡男・岡崎三郎信康に謀反の噂が出た時、信長に呼ばれた忠次が一切弁明しなかったと伝えられる。そのこともあって、忠次の評価は低い。
大久保彦左衛門忠教が著した『三河物語』によれば、信長の娘で信康夫人の五徳が、信康の中傷をしたためた書状を酒井忠次に持たせて信長の許に派遣。信長の詰問に忠次が「その通りです」と回答したことから、「徳川家中の老臣がすべてその通りというのなら疑いない。それなら、とても放置しておけぬ。切腹させよと家康に申せ」と命じたのだという。悪いのは家康・信康父子ではなく、すべて忠次の讒言のせいだというのだ。
ところが、『松平記』によると、「信長おどろき給ひ、酒井左衛門尉(忠次)・大久保七郎右衛門(忠世)を呼て、三郎(信康)殿へ、内々酒井を初て皆々家老数度異見有しかども用給はず。其比酒井とも大久保とも、三郎殿不快にて御座候時分なりし間、信長御腹立ち、『か様の悪人にて家康の家をなにとして相続あらん、後には必家の大事と成らん』といかり給ふ」と、酒井忠次だけではなく、大久保忠世(忠教の実兄)も信長の許に派遣され、同様に不満を述べていたという。しかも、信康が切腹させられた二俣城の城主は大久保忠世だ。