徳川家康が天下人になれたのは家臣たちが優秀だったからと言われている。徳川家臣団についての著作がある菊地浩之さんは「徳川四天王の中でも家康より15歳上の筆頭家老、酒井忠次は、軍略、戦闘、外交のみならず宴会芸にも優れた“できるサラリーマン”の見本のような存在だった」という――。

※本稿は、菊地浩之『徳川十六将 伝説と実態』(角川新書)の一部を再編集したものです。

徳川四天王の最年長・酒井忠次とはどんな武将だったか

酒井左衛門尉忠次(1527~96)は「徳川四天王」の一人。家康より15歳年長で、通称を小五郎、のち左衛門尉、左衛門督と称す。徳川家の重臣の家に生まれ、兄(もしくは伯父)の酒井将監忠尚の失脚により、筆頭家老となった。

家康が三河を統一すると、東三河の要衝・吉田城代に登用され「三備みつぞなえ」改革で東の旗頭として東三河の国衆や松平一族を率いた。姉川の合戦、三方原の合戦で主翼を担い、長篠の合戦では信長に進言して鳶ヶ巣山砦を夜襲、勝利に貢献した。

家康は若手の中から本多忠勝や榊原康政のような猛将を好んで抜擢したが、忠次はかれらとは全くタイプの異なる智将であり、大局観があって無駄な戦を好まず、家康に出陣を諫めることも少なくなかった。情報収集能力・判断力にすぐれ、しばしば先鋒や先遣隊、殿軍を任された。天正16(1588)年に致仕して、慶長元(1596)年に京都で死去。享年70。

徳川家臣の筆頭家臣であり、子孫は庄内藩を治めた

妻は家康の叔母・碓井姫(於久、臼井姫、吉田姫ともいう)。碓井姫ははじめ長沢松平政忠に嫁いで康忠を産み、永禄3(1560)年の桶狭間の合戦で政忠が討ち死にすると、酒井忠次に再縁した。

嫡男・酒井宮内大輔家次は関東入国で下総臼井3万石を賜り、上野高崎藩5万石を経て越後高田藩10万石に転封となった。子孫は信濃松代藩を経て、出羽鶴岡藩(通称・庄内藩)17万石を領した。

酒井家の家紋は「丸に酢漿草かたばみ」「沢瀉おもだか」である。「徳川十六将図」では衣服に家紋を付けていることが多いが、酒井忠次は酢漿草紋を付けられている(図表1)。

徳川十六将の家紋
出典=『徳川十六将 伝説と実態』(角川新書)

忠次は家老の家柄で、国人領主並みの動員力があったようだ。

家康の父・広忠の死後、今川占領下で、三河の有力者は家康と別個に直接今川傘下に組み入れられたのだが、忠次もその一人だったのだ。

桶狭間の合戦以前の弘治2(1556)年、尾張との国境に位置する三河福谷(愛知県みよし市福谷)に織田軍への備えとした砦を構え、酒井忠次を守将としている。大久保新八郎忠勝、渡辺針右衛門義綱、杉浦八郎五郎吉貞らが与力として附けられているが、酒井家単独で砦を守る軍が構成できたのだろう。

また、徳川家中の有力者と他家から認識され、しばしば子女を人質に出している。