なぜ家康は秀吉の要請に応じたのか
大河ドラマ「どうする家康」の第34回「豊臣の花嫁」では、徳川家康が、対立してきた豊臣秀吉の要請に応じ、上洛を決断する様が描かれた。
「もう誰にも何も奪わせぬ。儂が戦なき世をつくる。2人(筆者註=家康の亡き妻子。正室・築山殿と嫡男・松平信康)にそう誓ったのじゃ」と当初は頑なに上洛(秀吉への臣従)を拒んでいた家康。
ところが、側室・お愛の方(西郷局)の「他の人が戦なき世をつくるなら、それでも良いのでは」との意見や、重臣・酒井忠次の「お心を縛りつけていた鎖(筆者註=亡き妻子への誓い)、そろそろ解いてもよろしいのでは」との提言により、自身が天下人となり、戦なき世を作るという「夢」を一旦諦めるのだ。
「関白(秀吉)を操り、この世を浄土とする。それが、これからの儂の夢じゃ」というように心境が変化したのであった。
このように、ドラマでは家康は、自分が天下を取ることは断念し、戦なき世を作ることは別の形(秀吉への臣従)で成し遂げようとした。家康は正室・築山殿が生前に提言していた平和な国を作るという「慈愛の国」構想(ドラマにおけるフィクション)にいまだ動かされるような形で、上洛を決意したと言えようか。
ドラマでは描かれなかった上洛の理由
では、史実において家康は、なぜ上洛を決意したのであろうか。
天正14年(1586)10月27日、徳川家康は豊臣秀吉と大坂城で対面し、臣従を約した。家康が大坂に行き、秀吉に服したのは、1つには、秀吉と全面的に戦をしても最終的には自身が劣勢となり敗れるという冷静な判断があったからだろう。もちろん、そうなると、徳川領国は戦火で荒れ果て、侍は死に民衆は苦しむことになり、それは避けたいという想いもあったはずだ。
そして、もう1つ、家康が秀吉に服した理由がある。
それは、家康が大坂に下るひと月ほど前のこと。遠江国の寺院に対し、家康は寺領の安堵や寺院の法規を記した文書を出している(現存する文書は3通であるが、同内容の文書は遠江国の全寺院に出された可能性も指摘されている)。