秀吉の臣下になって得られた果実
足利幕府15代将軍の義昭は信長によって京都を追われて以降、毛利氏の庇護下にあったが、天正15年(1587)には上洛し、翌年(1588)正月13日には将軍職を辞し、出家している。
足利幕府の滅亡を信長の義昭追放時(1573年)に求めることが教科書等でも多いが、厳密に言えば、1588年に足利将軍家は終焉を迎えたのである。
家康が足利将軍の終焉と共に、源氏に改姓したという説の裏には、彼が将軍職(征夷大将軍)就任をこの時から望んでいたのではないかという考察もあるのだ。
高位高官となった家康には、それは遠い夢ではなかったであろう。源氏になれたのも清華成を果たしたのも、家康が上洛し、秀吉に臣従したからこその「果実」であった。臣従を拒んでいたら、待っていたのは、重ければ家康の死と徳川家の滅亡、軽くても大幅な領土削減であったであろう。
参考文献
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井譲治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)