合理的な領国経営が可能に
こうして豊臣政権における関東と奥羽の「惣無事」の拠点となった家康の領国は、知行高がそれまでの120万石から倍増して240万石、近江(滋賀県)の領土などを含めると、250万石を超えた。いうまでもなく豊臣政権のなかで最大だった。
たとえ見知らぬ土地への転封でも、この圧倒的な加増によって、家康は豊臣政権のなかで他を圧する経済力を有し、秀吉の没後に豊臣恩顧の大名たちを手なずけることが可能になったといえる。
また、安藤優一郎氏は「じつは家康にとって、関東転封とは悪い話ばかりではなかった。国替えに乗じて先祖伝来の土地と切り離すことで、独立性の高い家臣の力が削げるメリットがあったからだ」と書く(『徳川家康「関東国替え」の真実』)。
家康の家臣団は三河(愛知県東部)譜代を中心に、忠誠心が高いイメージがある。とはいえ、武田氏の滅亡後は版図が一気に増え、家臣団の統制に苦労していたと考えられる。こうしてまとまりが失われかけた家臣団を統制するには、彼らを父祖伝来の土地から切り離して独立性を奪うにかぎる。
かつて織田信長は、清洲城(愛知県清須市)から小牧山城(愛知県小牧市)に居城を移転して、家臣を父祖伝来の土地から切り離し、機動的な部隊を創り上げた。それを家康は関東で、より大規模に行った。
そして、10万石以上の重臣の配置は秀吉に従いつつも、42名におよんだ1万石以上の家臣は、交通の要地に点在する北条氏時代の支城に配置した。縁もゆかりもない土地だからこそ、しがらみにとらわれずに理想的な配置が可能で、結果として、合理的な領国経営が可能になった。家康は最初から、そのことを見越していたのではないだろうか。