関東のことは家康にまかせた
家康が大坂城に登城して秀吉に謁見し、正式に臣従したのは、天正14年(1586)10月27日のこと。それから間もない11月4日付の上杉景勝宛秀吉書状には、その際に家康と相談したことには「関東の儀」「八州の儀」(関八州=関東のこと)があって、その「惣無事」については家康にまかせた旨が記されている。
同様の内容は、たとえば伊達氏の重臣、片倉小十郎に宛てた秀吉の書状にも「関東惣無事の儀、今度家康に仰せ付けられ候の条」と書かれている。
要するに、秀吉は関東のことは家康にまかせた、ということだが、ここに出てくる「惣無事」については説明が要るだろう。「惣無事」とは関白になった秀吉が、大名同士の領土紛争を「私戦」として禁止したことを指す。
秀吉は大名たちにまず「惣無事」を命じ、双方の大名がそれを受諾すれば、秀吉が領土の裁定をし、それを双方が受け入れればそこで解決する。だが、反発すれば武力討伐の対象になる、というものだった。
そして秀吉は、家康に関東の「惣無事」をまかせたのである。
秀吉から命じられた家康の役目
そのために秀吉は、臣従した家康にまず、家康に逆らう信濃(長野県)の国衆の真田、小笠原、木曾の3氏を帰属させた。こうして徳川領国の平和を保証したうえで、関東の「惣無事」をゆだねた。その際、「惣無事」の主要な課題は、北条氏を臣従させることにほかならなかった。
秀吉は天正15年(1587)に九州を平定すると、それには従軍しなかった家康に関東(および奥羽)の「惣無事」を迫った。ところが、天正16年(1588)4月に行われた後陽成天皇の聚楽第行幸に際しても、北条氏は上洛しない。そこで家康は同年5月、北条氏政、氏直父子に宛てて起請文を送って、上洛と秀吉への出仕を促し、受け入れられないなら氏直に嫁がせた娘の督姫を返してほしい、と書き送っている。
これを受けて8月に、氏政の弟で氏直の叔父である氏規が上洛し、秀吉に北条氏の臣従の意を示した。そして年内に氏政が上洛することを約束したので、秀吉は北条氏の領土問題を裁定。真田氏が上野にもつ沼田領と吾妻領のうち3分の2を北条氏に引き渡すように命じ、これで「惣無事」は実現するはずだった。
ところが、北条氏の家臣の猪俣邦憲が、沼田領内で真田氏領のまま残っていた名胡桃城を攻め落としたため、秀吉は激怒して北条の武力討伐を決める。秀吉の決定は、先に記した「惣無事」の流れに沿ったものだった。