秀吉が家康の実績に頼った

これを家康側から述べると、次のようになる。秀吉から関東の「惣無事」をまかされたが実現できなかった。このため、3万の軍勢を率いて小田原攻めの先陣を務めるように命じられた。

前出の柴氏は「この出陣は、豊臣政権による『関東・奥領国惣無事』活動に支障が生じた場合、家康が真っ先に軍事的解決に努めることを役割(責任)とする『奉公』であった」とし、戦後の関東移封についても「北条領国の制圧が迫るなか、徳川氏が果たす役割(責任)が関東移封という処遇だったというのが実情である」と記す(同書)。

秀吉の全国平定には、関東に君臨する北条氏が臣従することが必須だったので、家康にそれをまかせた。ところが、家康にはそれができなかったので、代わりに家康自身に関東を治めさせる。ある意味、合理的な措置である。

加えて、家康は織田政権のころから北条氏以外にも北関東の諸大名や、陸奥(青森、岩手、宮城、福島の各県と秋田県の一部)の伊達氏や出羽(山形県と秋田県)の最上氏らと外交関係を築いていた。秀吉はその実績に頼りたかったのである。

このため、秀吉は早くから、家康を関東に国替えさせることを決めていたと思われる。北条氏直が投降したのが天正18年(1590)7月5日で、家康の関東移封は7月13日に発表になったが、5月にはその噂は広がっていた。6月には秀吉と家康のあいだで合意があったと見られている。

小田原城 2018年7月
小田原城 2018年7月(写真=アルヴィンツ/CC-Zero/Wikimedia Commons

決して左遷人事ではない

また、本多隆成氏は「関東転封が豊臣政権による『惣無事』政策の一環であったことは、新領国の知行割に際して、秀吉の介入があったことからも知られる」と書く(『定本 徳川家康』)。

関東移封後、10万石を超えた家康の家臣は、上野(群馬県)箕輪(高崎市)の井伊直政が12万石、同館林(館林市)の榊原康政と上総(千葉県)大多喜(大多喜町)の本多忠勝がそれぞれ10万石だった。いずれも知行高から入封地まで、秀吉から細かく指示されている。箕輪と館林は北関東から奥羽へとつながる東山道中にあるなど、秀吉は関東と奥羽を統治すること念頭に、家康と家臣団を配置したことがわかる。

江戸に関しても、かつては家康が入ったころの江戸は東国の一寒村で、家康が苦労して発展させた、とされていた。しかし、それは江戸時代に家康神話を形成するためにつくられた話で、実際には、当時の江戸は各地から物資が集積する経済上の要地だった。そのうえ関東から東北に向かう主要街道の起点で、水運にも恵まれていたため、関東と東北を抑える要地として、秀吉は家康を江戸に入部させたのである。

豊臣政権が安定するか否かを左右する急所の統治をまかされたのだから、家康が移封を好んだかどうかはともかく、左遷であったとはいえない。重臣の入封地まで細かく指定したことからも、秀吉が関東を重視していたことが伝わる。