1585年11月29日、中部地方から近畿地方東部を巨大地震が襲った。歴史評論家の香原斗志さんは「地震の直前まで、秀吉は対徳川の戦いの準備をしていた。もし、この天災がなければ、家康は秀吉によって滅ぼされていた可能性が高い」という――。
徳川家康公像=2018年8月9日、愛知県岡崎市・岡崎公園
写真=時事通信フォト
徳川家康公像=2018年8月9日、愛知県岡崎市・岡崎公園

ドラマ内での地震の描き方に驚いた

「つくづく運のええ男、家康、ちゅうは」

NHK大河ドラマ「どうする家康」の第34回「豊臣の花嫁」で、ムロツヨシ演じる羽柴秀吉は、こうつぶやいた。天正13年(1585)11月29日午後10時すぎ、中部地方から近畿地方東部を襲った巨大地震、いわゆる天正地震が発生し、家康を攻めることができなくなっての言葉だった。

ドラマでは徳川家康(松本潤)も、家臣たちに「守りを固め、戦に備えよ」と指示していたが、そこに巨大地震が発生。当面の戦争は回避された、という状況が描かれた。それは史実と異なるわけではないものの、ドラマではかなり軽くやり過ごされて驚いた、というのが正直な感想だった。

なぜなら「天正地震」が救ったのは、家康の生涯における最大の危機だったからである。いってみれば、この地震が発生しなければ、その後、家康が天下をとれたかどうかは疑問で、地震がなければ、江戸時代もなかったかもしれないからである。

地震が発生する前後の、家康と秀吉をめぐる経緯を追えば、いかに家康が命拾いをしたかわかると思う。

大河は描かなかった石川数正の出奔の余波

天正地震が発生する1カ月ほど前の10月28日、家康は秀吉との事実上の断交を決定した。家康の家老の親族などを秀吉に人質として出すように求められていたのを、正式に拒否したのである。その後、秀吉とのあいだに立って人質提出の話を進めていた重臣で宿老の石川数正は、対秀吉において主戦派が大勢を占める徳川家のなかで孤立し、身の危険を感じた挙句、11月13日に秀吉のもとへ出奔した。

その4日後の11月17日、秀吉は「家康成敗」のために、翌天正14年(1586)正月に出陣することを決意し、配下の大名たちに準備をするように命じている。

たとえば、前線基地になる美濃(岐阜県南部)大垣城(大垣市)の城主、一柳ひとつやなぎ直末に宛てた書状には、正月15日以前に大垣城まで出向くので準備に抜かりがないように、という指示が記されている。11月19日付の真田昌幸宛ての書状にも、同様のことが書かれ、秀吉の決意の固さがうかがえる。

また、このタイミングで秀吉が家康成敗を決めたということは、石川数正の出奔がその引き金になったということである。

「どうする家康」の第34回では、数正(松重豊)は家康と徳川家を守るために責任を一身に背負って出奔した、という描き方だった。それに、数正は死に追いやられた家康の正室の瀬名こと築山殿(有村架純)が望んだ「戦無き世」の実現のためにも、秀吉への臣従を家康に促した、という話だった。

しかし、数正の行動は、自身の身に迫った危険を回避するためだと思われ、このようなメルヘンを感じさせる背景とは縁遠い。なにしろ、彼の出奔を契機にして、家康も徳川家も葬られかねない状況に置かれたのである。