「きわめて異常で恐るべき」地震

むろん、家康も手をこまねいてはいられないので、数正が城代を務めていた岡崎城に酒井忠次を在番させ、家康自身、吉田城(愛知県豊橋市)や岡崎城などを相次いで訪れ、防備を強化するように指示している。

そこに11月28日、織田信長の次男で家康が小牧・長久手の戦いを一緒に戦った織田信雄らが岡崎城を訪ね、秀吉との和睦を勧告した。しかし、この時点では、家康は秀吉に頭を下げるつもりはなかった。

天正地震が発生したのは、その翌日のことだった。イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスは『日本史』に次のように記している。

「堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起こった。それはかつて人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほど(すさまじいもの)であった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に恐怖と驚愕きょうがくを与えた」

「これらの地震が起こった当初、関白(秀吉)は、かつて明智(光秀)の(ものであった)近江の湖のほとりの坂本の城にいた。だが彼は、その時に手がけていたいっさい(のこと)を放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂へ避難した。そこは彼にはもっとも安全な場所と思えたからである」(松田毅一・川崎桃太訳)。

この地震は、マグニチュード8程度の直下型地震だったと推定されている。

地震でひびが入った地面
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城が一瞬にして土砂の下に消えた

被害はかなり広範に及んでいる。以下、寒川旭著『秀吉を襲った大地震』(平凡社新書)をもとに被害状況を記すと――。山内一豊が配されていた長浜城(滋賀県長浜市)は、湖岸の城と城下町が軟弱地盤であったこともあり、倒壊したうえにくまなく炎上したという。一豊は妻の千代とのあいだに生まれた女児を失っている。

先述した大垣城も、地震で城内の建物は降り積もった雪のうえに倒壊し、残らず炎上したという。秀吉は家康成敗のための兵糧なども大垣城に置いており、大垣城が灰燼に帰した時点で、家康を攻めることは困難になったといっていい。

家康成敗で先陣を切るのは織田信雄だと考えられたが、信雄の居城であった伊勢(三重県東部)の長島城(桑名市)も壊滅した。江戸時代にまとめられた『当代記』には、城内で建物が倒壊し、周囲が川になったと書かれている、洪水か液状化か津波のいずれか、あるいはすべてが発生したのだろうか。ほかにも、天守をはじめ建物が壊滅したという記録がある。結局、信雄は長島城を廃棄し、清洲城を修復して移っている。

信雄が大きな被害に遭ったことでもまた、家康成敗は困難になった。

この地震による被害の最たるものは、飛騨(岐阜県北部)の帰雲城(白川村)で起きていた。山腹が崩れ落ち、城主の内ヶ嶋氏理はもちろん、城も城下もすべてが一瞬にして土砂の下に姿を消してしまった。