織田信長が生前に後継者と決めていた息子の名前
本能寺で織田信長(岡田准一)が横死して以後、NHK大河ドラマ「どうする家康」のキーマンの一人になるのが、信長の次男の信雄(浜野謙太)である。ただし、神輿を担がれては転落するという、カリスマだった父とは対照的な残念な道を歩む。
信長の嫡男は、本能寺の変で命を落とした信忠だった。信長は早くから信忠を後継に決め、すでに天正3年(1575)11月には家督を譲り、尾張(愛知県西部)と美濃(岐阜県南部)の統治を任せている(『信長公記』)。だからこそ、明智光秀は信長父子をともに殺したのである。
じつは、信忠は安土城に逃げられたはずだった。その証拠に、信忠の居所の妙覚寺からは水野忠重や鳥居元忠ら多くが脱出できている。ところが、信忠は光秀が京都の出入り口をふさいでいると考えて二条御所に籠り、自刃に追い込まれた(『当代記』)。実際には、光秀はそこまで手を回せていなかった。信忠が逃げていれば、その後、羽柴秀吉が天下をとることはなかったかもしれない。
「秀吉の主導で三法師を選んだ」はウソ
それはともかく、信長にとっては信忠一択だったので、息子たちのうち父の生前に成人した者は、信雄が伊勢(三重県東部)の北畠氏、信孝が伊勢の神戸氏、信房が美濃(岐阜県南部)岩村(恵那市)の遠山氏、秀信が羽柴秀吉と、みな他家に養子に出されていた。
だから、天正10年(1582)6月27日に、「織田政権」のあらたな枠組みを決めるべく開かれた清須会議でも、信雄や信孝を後継者にするという選択肢はなかったようだ。
江戸時代に書かれた『川角太閤記』などには、清洲会議では信雄と信孝のどちらが家督を継ぐかが話し合われたが、秀吉の主導で、信忠の遺児で数え3歳の三法師が選ばれた、とある。
だが、柴裕之氏は「信長は生前、信忠に織田家の当主を継がせ、さらに天下人の後継者にするという方針を固めていた。(中略)そのため、信長・信忠父子が亡きいま、嫡系の三法師のみが、天下人織田家の正統な家督継承者になりうるという状況にあった」と書く(『織田信長』)。