「ふつうより知恵が劣っていた」

とはいえ、幼い三法師の名代(家督代行者)は必要で、信雄と信孝のどちらが務めるかが話し合われたが、2人とも自分がやるといって譲らなかった。このため秀吉、柴田勝家、丹羽(惟住)長秀、池田恒興の宿老4人が、談合で「織田政権」を運営することになり(『多聞院日記』)、信忠の遺領は尾張が信雄、美濃が信孝にそれぞれあたえられた。

織田信雄画像・総見寺蔵(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)
織田信雄画像・総見寺蔵(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

だが、まもなく、「織田政権」内部で醜い政争が起き、信雄と信孝は激しく対立する。

ところで、信長の遺児のなかで、信孝は人望が厚かったのに対し、信雄は「愚将」で人望に欠けたと伝わる。そのことはイエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスも、信雄がしでかしたという愚行とともに『日本史』(松田毅一・川崎桃太訳)に書いている。

「明智の軍勢が津の国において惨敗を喫したことが安土に報ぜられると、彼が同所に置いていた武将は、たちまち落胆し、安土に放火することもなく、急遽坂本城に退却した。しかしデウスは、信長があれほど自慢にしていた建物の思い出を残さぬため、敵が許したその豪華な建物がそのまま建っていることを許し給わず、そのより明らかなお知恵により、付近にいた信長の子、御本所(信雄)はふつうより知恵が劣っていたので、なんらの理由もなく、彼に邸と城を焼き払うように命じることを嘉し給うた。城の上部がすべて炎に包まれると、彼は市にも放火したので、その大部分は焼失してしまった」

誰が安土城に放火したのか

明智光秀が討たれた翌日の6月14日、または15日、織田政権の象徴だった絢爛けんらんたる安土城(滋賀県近江八幡市)は炎に包まれた。フロイスは「とうする家康」では描かれなかったこの火災について、「ふつうより知恵が劣っていた」信雄が、「なんの理由もなく」火をつけた、というのである。

一方、江戸時代に書かれた『惟任退治記』や『太閤記』などには、光秀の重臣の明智秀満が、光秀の敗戦を知って安土城から退却する際に城下に火を放ち、城の主要部に延焼したと書かれている。

しかし、滋賀県が平成20年(2008)まで行った発掘調査で、炎上した痕跡は主郭部にしか確認されず、城下から飛び火した可能性は否定された。フロイスにはだれかをかばう必要も信雄を貶める理由もない。「城の上部」が炎上したという記述も発掘調査の結果と重なり、犯人は信雄だと思われる。