大河ドラマと違い家康は信雄を支持した

人望もある信孝は、そんな信雄を見るにつけ、負けられないと思ったのではないか。清須会議ののち、安土城が修築されるまで三法師は、信孝が入った岐阜城(岐阜県岐阜市)で過ごすことになったが、信孝はそのことを背景に、「織田政権」を主導しようとした。

それを嫌った信雄や秀吉が反発すると、秀吉の台頭を嫌がる柴田勝家が信孝方につき、信孝と勝家、信雄と秀吉という2つの閥の抗争に発展。そこで秀吉は10月28日、クーデターを起こす。丹羽長秀、池田恒興を味方につけ、織田家当主の地位を三法師から信雄に交替させたのである。

神輿は軽い方がいい、と秀吉は考えたのだろう。ちなみに徳川家康は、12月22日付の秀吉宛て書状で信雄の擁立に祝意を表し(『益田孝氏所蔵文書』)、その後も一貫して信雄支持の立場を崩さなかった。

「どうする家康」の第30回「新たなる覇者」(8月6日放送)では、家康が信長の実妹の市が嫁いだ勝家を助けるかどうか煩悶したが、家康は翌天正11年正月17日に信雄と、その領国である尾張に赴いて対面している。これは事実上、信雄に臣従したということで、家康が勝家すなわち信孝側に協力する可能性は皆無だった。

小牧長久手の戦いのきっかけ

さて、天正10年(1582)11月に信雄は信孝を攻撃。秀吉らも救援して12月に降伏させて三法師を奪還し、天正11年正月に安土城に入城した。その後、3月に柴田勝家が進軍すると、4月に信孝はふたたび挙兵するが、賤ヶ岳の合戦で勝家が敗れると、信雄は岐阜城を攻撃。信孝を降伏させ、5月2日に自害させている。

兄弟が醜く争った結果は、「愚将」の信雄が残るという、秀吉の思うつぼの結果に終わった。織田政権は、信雄を宿老の秀吉が一人で支える新体制になったものの、信雄と三法師は秀吉の指示で、安土城から清須城(愛知県清須市)、坂本城(滋賀県大津市)へとそれぞれ退去させられた。そして、秀吉は大坂城を築いて政権を牛耳るようになり、信雄との関係は、11月ごろには最悪になる。

翌天正12年(1584)3月6日、信雄は秀吉と親交があった3人の重臣を殺害する。家康と連携しての秀吉への宣戦布告だった(『真田家宝物館所蔵文書』)。これを受けて家康はすぐに出陣、13日に清洲城に着き信雄と対面した。小牧・長久手の合戦のはじまりである。

信雄は家康とともに小牧山城に入城。軍勢は秀吉方が圧倒的に上回ったが、4月9日、家康方は秀吉方の別動隊を撃破し、池田恒興と元助の父子、森長可を討ちとるなど、壊滅的な打撃をあたえている。