秀吉にとって家康が「脅威」というのは大げさ
小田原の北条氏が滅亡させられると、徳川家康は豊臣秀吉の命で、北条氏の旧領だった関東に国替えになり、本拠地を小田原でなく江戸に置いた――。
のちの江戸時代、ひいては首都が東京に置かれることにもつながり、多くの人に馴染み深い史実だろう。「どうする家康」の第38回「さらば三河家臣団」(10月1日放送)でも、このことが描かれる。
よく語られるのは、秀吉にとって家康という存在は脅威だったので、北条氏が滅亡したこの機会を利用して、体よく遠方に追いやったという説明だ。たしかに、そういう面もなかったとはいい切れないが、秀吉にとって家康が「脅威」だというのは、豊臣政権が強大化したこの時点では、家康を買いかぶりすぎでもある。
むしろ秀吉は、豊臣政権のなかでいまだ不安定な関東および東北を、しっかり平定して統治するために、家康の力を最大限に利用しようとした、というのが最近の研究者たちの主だった見解である。
ショックは受けてもチャンスだった
「どうする家康」では、秀吉(ムロツヨシ)から関東に移るように命ぜられた家康(松本潤)は、ショックを受けるとともに、家臣たちにすぐに伝えられずに思い悩むようだ。
実際、家康も家臣たちもショックを受けたことだろう。縁もゆかりもない土地に移封になった大大名など、これまで例がなかったからなおさらだ。しかし、この移封のおかげで家康は力を貯え、のちの天下獲りにつながったともいえるのである。
柴裕之氏は「小田原合戦が勃発すると、徳川氏はその軍事的解決を担うべく先陣を務めた。そして合戦後、徳川氏は関東の安定と奥羽への押さえとして、これまでに積み上げてきた政治活動の実績が買われたことに加え、北条氏が敵対したことによる始末をつける意味で、戦後処理を負わされた格好となり、関東に移封されたのである」と書く(『徳川家康』)。
妥当な見解だと思われるので、ここに書かれたことの意味をひもといていきたい。