1590年、豊臣秀吉は徳川家康に関東への移封を命じた。歴史評論家の香原斗志さんは「よく言われるような左遷人事ではなかった。秀吉は天下統一のカギを握る重要な土地の統治を信頼のおける家康に任せたかったのだろう」という――。
重要文化財「豊臣秀吉像」(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。〈伝 狩野光信筆〉(画像=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
重要文化財「豊臣秀吉像」(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。〈伝 狩野光信筆〉(画像=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉にとって家康が「脅威」というのは大げさ

小田原の北条氏が滅亡させられると、徳川家康は豊臣秀吉の命で、北条氏の旧領だった関東に国替えになり、本拠地を小田原でなく江戸に置いた――。

のちの江戸時代、ひいては首都が東京に置かれることにもつながり、多くの人に馴染み深い史実だろう。「どうする家康」の第38回「さらば三河家臣団」(10月1日放送)でも、このことが描かれる。

よく語られるのは、秀吉にとって家康という存在は脅威だったので、北条氏が滅亡したこの機会を利用して、体よく遠方に追いやったという説明だ。たしかに、そういう面もなかったとはいい切れないが、秀吉にとって家康が「脅威」だというのは、豊臣政権が強大化したこの時点では、家康を買いかぶりすぎでもある。

むしろ秀吉は、豊臣政権のなかでいまだ不安定な関東および東北を、しっかり平定して統治するために、家康の力を最大限に利用しようとした、というのが最近の研究者たちの主だった見解である。

ショックは受けてもチャンスだった

「どうする家康」では、秀吉(ムロツヨシ)から関東に移るように命ぜられた家康(松本潤)は、ショックを受けるとともに、家臣たちにすぐに伝えられずに思い悩むようだ。

実際、家康も家臣たちもショックを受けたことだろう。縁もゆかりもない土地に移封になった大大名など、これまで例がなかったからなおさらだ。しかし、この移封のおかげで家康は力を貯え、のちの天下獲りにつながったともいえるのである。

柴裕之氏は「小田原合戦が勃発すると、徳川氏はその軍事的解決を担うべく先陣を務めた。そして合戦後、徳川氏は関東の安定と奥羽への押さえとして、これまでに積み上げてきた政治活動の実績が買われたことに加え、北条氏が敵対したことによる始末をつける意味で、戦後処理を負わされた格好となり、関東に移封されたのである」と書く(『徳川家康』)。

妥当な見解だと思われるので、ここに書かれたことの意味をひもといていきたい。