「カタツムリは殻を脱いだらナメクジ」は本当か

沖縄島に移住してしばらくしてから、地元の新聞で、子ども向けの自然記事の連載を始めることになった。ある年、その新聞への寄稿者を集めた忘年会の席で、思いがけなくカタツムリの話となった。

「カタツムリの殻のないのがナメクジじゃなくて、別のものなんですか?」

そんなふうに、まず聞かれた。

この質問について少し解説すると、これは、質問者が「カタツムリは殻を脱いだらナメクジになる」という認識をもち、その認識に基づいて質問をしていることを示している。つまり、「カタツムリの殻が脱げたのがナメクジだと思っていたのですが、カタツムリとナメクジはもともと別の生き物なのですか?」と、この人は聞いてきたわけである。

この発言に見られるような、「カタツムリは殻を脱いだらナメクジになる」、すなわち「カタツムリの本体は、ヤドカリのように殻を出入りすることができる」という認識を、私は「カタツムリ=ヤドカリ説」と名付けている。最初に私がこの認識の存在に気づいたのは、埼玉の学校での教員時代、生徒とのやりとりの中においてだ。あとでまた紹介するが、この認識は、私の勤務している大学の学生たちの中にも少なからず散見される。

写真=iStock.com/Tetiana Kolubai
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カタツムリとナメクジが同じ呼び名の地域もある

過去にさかのぼって、日本人がどのようにカタツムリとナメクジの関係を認識していたのかを調べてみると、古い時代においても「カタツムリ=ヤドカリ説」につながるような記述を見ることができる。

寺島良安の手になる江戸時代の百科事典、『和漢三才図会』(1712年成立)を見ると、ナメクジの項には「蛞蝓と蝸牛とは二つの異なったものである。蝸牛の老いたものと同一物とするのは甚だあやまりである」と書かれてあり、両者はまったく異なるものであると説明がなされている。ただし、わざわざそう書かれているということは、両者は同一物と思う人が少なからずいたということでもある。

一方、『和漢三才図会』に先だって出版された、人見必大の著した食物百科、『本朝食鑑』(1697年刊)には、薬材としてナメクジのみが取り上げられている。そこには、いまだ殻を脱していないものをカタツムリといい、すでに殻を脱したものをナメクジという、といった内容が書かれていて、「カタツムリ=ヤドカリ説」に通じる認識がこの時代にも存在していたことが、はっきりわかる。

おもしろいことに、カタツムリの方言を全国レベルで調べ、『蝸牛考』という論考を書いた柳田國男によると、地域によって、カタツムリとナメクジを同一の名称で呼ぶところがあり、それどころか同一の名称で呼ぶことは「決して珍らしい例でも何でもないのである」という。

柳田によると、肥前・肥後・筑後の各地や壱岐ではカタツムリをナメクジというほか、津軽ではナメクジ、カタツムリを両者ともナメクジリという、とある。また秋田・比内ではカタツムリをナメクジリ、ナメクジをナメクジというほか、飛驒の北部では、カタツムリとナメクジの両方をマメクジリやマメクジラと呼ぶと書いている。なお、長崎県の諫早ではカタツムリはツウノアルナメクジ、つまり「甲羅のあるナメクジ」といい、ナメクジのほうが命名の基準となっている。