阿倍仲麻呂と小島瑠璃子の共通点

外国人用の試験が別途に存在して、それに合格したか……。でしょうね。この外国人用試験はまだ存在が確認されていませんが、九州大学名誉教授の川本芳昭先生の説です。私も妥当な仮説であると考えています。

――最近、タレントの小島瑠璃子さんの中国留学計画が報じられ、芸能マスコミでは「名門大学で学ぶらしい」と騒がれていました。しかし、実は外国人留学生向けの語学コースは、世界大学ランキングで東大を上回る名門校の北京大学や清華大学でも、学費を払えば誰でも簡単に入れるのですよね。唐の阿倍仲麻呂の時代から、こういう外国人専門コースみたいなものもあったかもしれませんね。

語学コースみたいなものはあったかもしれません。もしくは家庭教師がいたか。空海といっしょに渡唐した橘逸勢たちばなのはやなりは中国語が苦手でマスターできずに帰国、いっぽう空海は相当なレベルまで習得したとされます。阿倍仲麻呂も当初はそうやって語学を学んだのでしょう。その後、唐王朝に登用されるにあたっては、やはり唐人とは異なる外国人枠のキャリアパスがあったのではないでしょうか。

なぜ玄奘はまっすぐインドに向かわなかったのか

――本書『』を読んでいて興味深かったのが、『西遊記』の三蔵法師のモデルでもある玄奘げんじょうの旅の性質についてです。玄奘が経典を求めておこなった旅で得た中央アジアの情報が、彼の帰国後に太宗・李世民によってスパイ的に利用されたのではないかと指摘されています。

玄奘三蔵像(写真=ColBase/東京国立博物館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

京都大学人文科学研究所名誉教授の桑山正進先生の説です。実はあまり広くは知られていない説なのですが、私は妥当な見立てだと考えています。当時、唐の強力な外敵だった東突厥は弱体化していた。第2代皇帝の太宗・李世民から見て、次に勢力を伸ばすべき対象は東の朝鮮半島の高句麗と、西の中央アジア方面に割拠していた西突厥です。来るべき征服事業のために、現地の地理的情報は喉から手が出るほど欲しかったでしょう。

玄奘は長安からまっすぐインドには向かわず、天山山脈を北側に越えてパミール高原の外周をぐるっと回るという、不可解なほど遠回りな旅路を選んで中央アジアを旅しています。いっぽうで当時の中国王朝にとって、この地域の体系的な情報はほとんどなかった。漢の時代の匈奴征伐はすでに大昔の話でしたから。