「西国将軍」池田輝政の美学の集大成
むろん政治的にも、大きく美しい城を作る必要があった。
関ヶ原の戦いの後、池田輝政は播磨五十二万石を与えられ、大坂城の豊臣家と西国大名を監視する役目をおわされた。この役目を十全に果たすためには、十数万の大軍に攻められても1年や2年はもちこたえる城をきずかなければならない。
軍事的に精巧をきわめているばかりか、他の大名や領民に敵対することの無謀を思い知らせるほど威厳と威勢にみちたものにする必要がある。
輝政がそう考えていたことは明らかだが、単にそれだけならこれほど美しく仕上がるはずがない。あらゆるところに細工をほどこし、時には実用性を無視してまで装飾にこだわったのは、天下一の城をきずこうという輝政の美学があったからだ。
父子合わせて百万石ちかい所領を拝し、世人から「西国将軍」とたたえられた輝政にも、豊臣から徳川へと移り変わっていく時代の流れに翻弄されているという無念があった。だからこそ誰にも真似のできない見事な城をきずき、戦国武将の意地と誇りを天下に示そうとしたのだろう。
いわば姫路城は輝政の自画像である。かくあれと願った自分のゆるぎのない姿を、彼は丹誠こめて地上に描き上げていった。
だからこそこの白亜の城は、我々の胸にかくも切々と訴えかけるものを持っているのである。
秀吉の養子となり、家康の娘と結婚
関ヶ原の戦いに勝った家康は、次女督姫の夫である池田輝政に五十二万石を与えてこの地に配し、大坂城の豊臣家と西国大名の反乱にそなえさせた。
輝政はもともと秀吉と深い関係を持っていた。
本能寺の変が起こった時、秀吉は池田恒興(輝政の父)を身方にするために、輝政を自分の養子にすると約束した。そのために輝政は秀吉政権内で特別の地位を与えられ、後に豊臣の姓をたまわったのである。
2年後に小牧・長久手の戦いが起こった時、恒興は秀吉方となって出陣したが、家康軍との戦いで嫡男元助とともに討死した。そのために輝政が父の遺領である美濃を受けつぎ、岐阜城主となったのだった。
家康の娘督姫をめとったのは、秀吉にすすめられたからである。督姫は北条氏直にとついでいたが、小田原の役で北条氏が亡んだ後は実家にもどっていた。徳川家との関係を強化したい秀吉は、輝政の嫁に督姫をむかえることで家康の歓心を買おうとしたのである。
婚礼は文禄3年(1594)8月15日で、輝政は31歳、督姫は30歳だった。