大河ドラマ「光る君へ」(NHK)では、藤原道長が紫式部に「天皇を夢中にさせる物語を書いてくれ」と、「源氏物語」の執筆を依頼し、その後も続きを書くようにと、編集者のようにプロデュースしている。直木賞作家の澤田瞳子と対談した歴史学者の倉本一宏さんは「全54帖のうち、道長の要請を受けて書かれたのは第一部(33帖)までだったのではないか。第二部は、むしろ道長と決別した中宮彰子との関係が影響している」という――。

※本稿は『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 光る君へ〈紫式部とその時代〉』(NHK出版)の一部を再編集したものです。

平安貴族でも『源氏物語』全54帖を読破した人は少数派?

【倉本】紫式部については、誤解されている部分があると思います。『源氏物語』は、その発表当時からかなり絶賛され、ものすごく多くの人に読まれていたというイメージだと思いますが、実はそれほどではなかったのではないかと思います。今と違って出版業も本屋さんも図書館もありませんから、読めるのは写本を見られる人だけです。

しかも、全巻揃って最初から読めたという人も少なかったでしょう。たまたま手に入った巻だけを読んでいた人が大半のはずです。『源氏物語』は、通して最後まで読めば、第一部で光源氏が栄華を極め、第二部で光源氏も紫の上も苫悩して死んでいく。そして第三部で源氏の死後、浮舟うきふねらが浄土じょうど信仰によって源氏の罪をあがなうという構成になっていることがわかります。

【澤田】全体の構成はそうですね。

直木賞作家の澤田瞳子さん、歴史学者の倉本一宏さん
提供=NHK出版
直木賞作家の澤田瞳子さん、歴史学者の倉本一宏さん

【倉本】しかし、こうした壮大なストーリーを理解していた人は、おそらく当時はほとんどいなかった。それほどたくさん読まれていたわけではないし、現代のような正当な評価もされていなかったと思います。それと、紫式部本人は『源氏物語』の作者として評価されていた時期もありますが、その後、彰子の側近として活動していた時期の方が実は長いのです。

『小右記』には、紫式部のことを指していると思われる女房がしばしば登場するので、それがわかるのです。ですから、紫式部は『源氏物語』の作者というよりは、彰子の最側近の女房という評価の方が、同時代には強かったのではないかと、歴史学者としては思います。澤田さんは作家の先輩である紫式部について、どう思われますか。