源氏の子をめぐる予言から考え、序盤で構想は決まっていた?
【倉本】『源氏物語』の作中には源氏をめぐる三つの予言が出てきて、そのなかで「帝・皇后・太政大臣となる三人の子をもうける」というくだりがありますので、かなり早い時期に全体の骨格はできていたのだと思います。
実は今朝方、起きる直前に思いついたことがあります。『源氏物語』は、藤原道長が彰子への一条天皇の歓心を引くために紫式部に書かせたという話があり、私もそう思っています。だから道長は、当時は高価だった紙を紫式部に与えたとも思っていますが、道長の要請を受けて書かれたのは『源氏物語』の第一部までだったのではないか。
都落ちをして明石から京に帰ってきた後の光源氏は、どう考えても道長の投影だと思いますし、藤壺中宮は三条院詮子の投影でしょう。寛弘5年(1008)に彰子は出産のために身を寄せていた父道長の土御門邸から内裏に帰りますが、そのときに紫式部は『源氏物語』を清書しています。道長の影響下で書かれたのは、おそらくそこまでだろうという気がします。
つまり、光源氏が苦悩に満ちた生涯を送り、紫の上とともにその苦悩が解決することなく死んでいくという第二部が、道長のパックアップによって書かれたとは思えないのです。
【澤田】なるほど、それは大変面白いです。
第二部以降、光源氏が苦悩する展開は道長と決別してから書いた?
【倉本】したがって、道長との関係は第一部で終わっていて、「若菜」から始まる第二部は、むしろ道長と決別した彰子との関係が大きく影響しているのではないか。もちろん、第三部の宇治の姫君(浮舟)が出家したり亡くなったりする物語は、晩年の紫式部が心を寄せた浄土信仰に基づいているわけです。第一部は、光源氏が関係した女性をみな六条院に住まわせて、皆幸せになったという大団円で終わりますが、そこまでを道長に献上した。第二部以降の光源氏の苦悩の満ちた物語を構想したのは、そのあとではないかと思うのです。