毒母による後遺症
父方の祖母は父親にとっては継母で、父親は子どもの頃、継母に虐待されていたらしい。
「機能不全家族で育った父は、傷つけられることにはすっかり慣れてしまっていたのでしょう。おそらく、私がいないところで父が母をたしなめることもあったと思いますが、母がどんな反応をしたかもだいたい想像できます」
誰かがたしなめたところで、反省したり行いを改めたりするような人間ではなかったということだ。父親は、柴田さんの元夫の本性を見抜くほどの洞察力を持ち合わせていたように見受けられる(結婚に反対した)。それでも、娘の精神を守るために、父親は母親と距離を置くこともできたはずだが、それをしなかった。
「母は、暴言で相手を追い詰めるくせに、相手が死んだ途端に後悔の念に苛まれる人でした。でも私は、相手が死んだときに後悔は絶対にしたくありませんでした。だから父のときも母のときも、“してあげたいこと”はやっていきました。これ以上無理というくらいまでやってあげてサヨナラしたいと思ったからです」
母親は柴田さんに介護をされるようになってから、機嫌がいいときは「助かる」「悪いなあ」と口にすることもあったという。
柴田さんは母親を“かわいそう”と思い、反面教師にしていた。母親は、息子に対しては確かに母親だったのかもしれないが、娘の柴田さんに対しては、違った。夫に対しても娘に対しても、子どものように甘えていたように感じる。
「やるだけやった、やり切ったという自信があったので、おかげで、母を看取った後も寂しくて泣くようなこともありません」
亡くなる1週間くらい前、柴田さんは母親の耳元で、今まで自分がどれだけ耐えて我慢して頑張ってきたかを訴えた。すると、もう話すことができない母親は、それでも布団をかぶろうとしたり顔をそむけたりした。「ああ耳が痛いんだ」と思った柴田さんは、亡くなる前日の夜、こう言ったという。
「お母さん、ありがとね。お疲れさま。お兄さんとわんこたちのことは大丈夫だから任せてね。お父さんによろしく」
これは「あんたに兄くんのことは任せられない」「あんたに動物を飼う資格はない」と言われ続けてきた柴田さんなりの嫌味だった。「結局、私に任せる羽目になって残念だったね」という意味を込めたのだ。
「ただ、常に母を中心に生活していたので、これからは自分の好きなように生きていいとなっても、なんだか落ち着きません。『ああこれも母の影響か』と気付いて、四十九日を過ぎたあたりからふつふつと怒りが湧いてきました。ギリギリの精神ラインで普通っぽく振舞っていた私の限界に、そばにいてまったく気づかなかった毒母もモラハラの元夫も、ろくなもんではありませんよね」
柴田さんは現在、母親が吐き散らした毒の解毒と、自分の中にある感情の地雷の撤去作業に努めている。それはおそらく、激しい痛みを伴う作業になるだろう。柴田さんが「自分」を生きられるようになることを願う。