名古屋市が東海地方の中心になったワケ
名古屋城は家康が、まさにこだわり通した末にできあがった、最後にして最強の軍事要塞だった。そして、この要塞をより堅固なものにするために、家康はさらに途方もないことを計画し、実行に移した。
新たな築城を決意すると同時に、清洲の町をそっくり名古屋に移すことにしたのだ。慶長15年(1610)には、いわゆる「清洲越し」がはじまり、武士や町人が約6万人、名古屋に引っ越し、67の町および約100の寺社も名古屋に移った。寺社は城の防衛に寄与するように、町人地の外側にまとめて配置したことも、家康のこだわりだといえるだろう。
とにかく、名古屋城とその築城の過程を眺めてわかるのは、家康の手抜きが一切ない徹底ぶりである。それは執念とか執着といった言葉では表現しきれないほどの、執拗なこだわりだが、そういう姿勢を貫いたからこそ、二百数十年も続く体制を築くことができたのに違いない。
慶長19年(1614)、大坂冬の陣に臨むために駿府城をたった家康は、まず名古屋城に立ち寄って陣容を整えている。家康がこれほど堅固な名古屋城を築いた理由は、その事実からも垣間見えるのでないだろうか。
さらには、名古屋城と城下町を包み込む、西洋の城郭都市のような総構えを築くのが家康の構想だったのだが、それは築かれずに終わった。豊臣氏が滅び、もはや包囲網が必要なくなったからである。