感染症がキリスト教を広めた
キリスト教がローマ帝国内で広く普及するきっかけとなったのは、感染症でした。
五賢帝の時代にも感染症で300万人を超える死者を出しています。その後、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの治世(165〜180年)に発生した流行で、1000万人近い人が死亡したとされます。
当時、この感染症はペストと呼ばれ、「アントニヌスのペスト」と呼ばれました。アントニヌス帝自身も、この感染症で死亡したとされます。
当時はペストと呼ばれましたが、症状から見て、実際は天然痘ではなかったかというのが最近の定説です。
原因不明の感染症で、多くの人がバタバタと倒れて死んでいく。当時の人たちが、どれほど恐れたことか。このとき多くの人はキリスト教に救いを求めたのです。
「キリスト教徒が同時代の異教徒に対して持っていたひとつの大きな強みは、悪疫の荒れ狂っている最中であろうとも、病人の看護という仕事が彼らにとって自明の宗教的義務だったことである。通常の奉仕活動がすべて絶たれてしまった場合には、ごく基本的な看護行為でも致死率を大きく引き下げるのに寄与するものである。
例えば食べ物と飲み水を与えてやるだけでも、体が衰弱していて自力ではそれを手に入れることができず、空しく死を待つほかなかった病人を、快方に向かわせることが大いにありうるのだ。
そして、こうした看護によって一命を取り留めた者は、以後、自分の命を救ってくれた人びとに対する感謝の思いと温かい連帯感を抱き続けるであろう。
だから、災厄的な疫病は、ほとんどすべての既存の諸制度が信用を失墜したまさにその時代にあって、キリスト教の教会を強化する結果をもたらした。(中略)
さらに、戦争や疫病あるいはその両方の災厄に痛めつけられながらも不思議に一命を取り留めたわずかばかりの生存者は、亡くなった近親者や友人を思うとき、みんな善きキリスト教徒として死んだのだから必ずや天国に生を享けるに違いないと、その至福の姿を幻に描くことができさえすれば、直接自分の悲しみを癒してくれるほのぼのとした慰めを得たのであった。神の全能性は、災厄の時も繁栄の時とひとしく人生を意義あるものたらしめた。」
(ウィリアム・H・マクニール著、佐々木昭夫訳『疫病と世界史』)
世界宗教へと広がる
ローマ帝国で最初にキリスト教を信仰した皇帝はコンスタンティヌス大帝です。313年、「ミラノ勅令」によってキリスト教が容認されました。
ちなみに「ミラノ勅令」と呼ばれますが、厳密には、このときミラノで勅令(皇帝の命令)が出されたわけではありません。
この年、ミラノでコンスタンティヌス大帝とリキニウス帝が結んだ協定にもとづいて、リキニウス帝が発布した内容を、後世の歴史家が、こう呼んだのです。
この勅令の内容は、キリスト教の迫害を止めてキリスト教を容認する、キリスト教団の存在を認める、キリスト教徒を迫害していた時代に没収した不動産を返還することなどでした。
これは、当時あまりにキリスト教徒が増え、弾圧するよりは容認することで、帝国の統治に役立てようとする意図があったと言われています。
これ以降、キリスト教の信者になる皇帝も出るようになり、キリスト教はすっかり市民権を得ます。日曜日は国家としても休日になりました。
やがて392年、テオドシウス帝は、遂にキリスト教を国教と定めます。さらに異なる宗教を禁止するに至ります。それまでの伝統的なローマの神々への信仰や太陽神への信仰は禁止されたのです。
ローマ帝国の領域内にあったギリシャでは、ゼウスを主神とする多神教が信じられ、定期的にオリンピック競技が開かれていましたが、これを機に禁止されました。
こうしてキリスト教迫害の時代は終わり、これ以降は、国の手厚い保護を受けるようになります。広大な地を支配したローマ帝国の国教となったことで、キリスト教はヨーロッパ各地に広がり、「世界宗教」へと発展していくことになるのです。