オウム真理教は、なぜ無差別殺人を犯すカルト集団になったのか。宗教学者の島田裕巳さんは「きっかけは、信者の事故死を隠蔽したことだ。この後、教祖・麻原彰晃は殺人を正当化する教義を説くようになった」という――。(第1回)

※本稿は、島田裕巳『日本の10大カルト』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。

ヨーガの道場としてはじまったオウム真理教

オウム真理教は、サリンを使った無差別大量殺人を敢行し、多くの死傷者を出した。その結果、教祖や多くの幹部、信者が逮捕され、宗教法人は解散になった。

しかし、オウム真理教の教祖、麻原彰晃の教えに従う人間たちは、その後も活動を続けている。後継教団となったのが、アレフ、ひかりの輪、そして、公安調査庁が「山田らの集団」と呼ぶグループである。

いずれも宗教法人にはなっていない任意団体で、「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(団体規制法)」のもと、観察処分の対象になってきた。アレフについては、2023年9月に、観察処分よりも重い再発防止処分が下されている。

その点で、オウム真理教はカルトの典型であり、後継教団は依然としてカルト性を強く持っていると考えられる。

しかし、オウム真理教が発足当初の段階からカルトであったわけではない。そもそもオウム真理教はヨーガの道場としてはじまったのであって、宗教でさえなかったからである。

なぜテロ集団に変貌したのか

麻原彰晃が東京の渋谷にヨーガの道場を「オウムの会」として開いたのは1984年2月のことだった。この時期、日本はバブル経済の時代に突入しようとしていたが、それと併行するように、オウム真理教は勢力を拡大し、1995年には地下鉄サリン事件を引き起こすに至る。

その時点で、オウム真理教の在家信者は1万4000人ほどで、出家者は1400人に達していた。富士山麓には「サティアン」と呼ばれる拠点が築かれ、ロシアでは日本よりも多い3万人の信者を抱えていた。オウム真理教の誕生から破滅までの期間は10年をわずかに超える程度であり、その拡大スピードはあまりに速かった。

瞑想(めいそう)するオウム真理教信者、1999年08月11日
写真=AFP/時事通信フォト
瞑想(めいそう)するオウム真理教信者、1999年08月11日

なぜオウム真理教は急速にその勢力を拡大したのだろうか。もちろん、その勢いは、高度経済成長時代に巨大教団へと発展した創価学会などとは比べ物にならない。だが、オウム真理教には、一流の大学を卒業したエリート層が多かった。それは、創価学会などには見られなかったことである。

それ以上の謎は、なぜヨーガの道場が、最終的に無差別大量殺人を敢行するテロ集団に変貌したかである。サリンは「貧者の核兵器」とも言われる。そのことばに示されているように核兵器に比べれば製造費用は安価なわけだが、民間の宗教団体がサリンを製造し、それを使用するなどということはそれまでないことだった。