「解脱」からわずか2年で道場開設

オウム真理教がさまざまな事件を引き起こすまでの過程について、私は、2001年に刊行した『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー、現在は『オウム真理教事件III』として同じトランスビューから出ている)で分析を行った。

私は、この本を書くにあたって、オウム真理教が事件後に刊行した『尊師ファイナルスピーチ』という麻原の著作物や説法などを収録した大部の4巻本すべてに目を通した。それによって、オウム真理教がどういう経緯を経て危険な行為に及び、殺人を肯定する教義を形成していったのかを明らかにすることができた。

ヨーガ道場の時代に会員から「先生」と呼ばれていた麻原は、1986年7月に2カ月にわたってインドに滞在して修行を行い、その間にヒマラヤの山中で解脱を体験したと称するようになる。麻原は、『生死を超える』という自身2冊目の著書のなかで、その際の解脱体験について語っていた。

日没時の山でのヨガポーズ
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その時期にはすでにオウムの会は「オウム神仙の会」に発展していたが、『生死を超える』を刊行した直後の1987年6月には「オウム真理教」に改称されている。宗教教団としての性格を強く打ち出すことになったのである。

会員のなかには、宗教教団になることに反対する者もいて、離脱者も出たが、教団には多くの若者たちが集うようになり、麻原は精力的にセミナーを開催し、説法をくり返した。その結果、1988年8月には、静岡県富士宮市に「富士山総本部道場」を開設するまでに至る。

多くの若者がオウムに入信したワケ

麻原自身は、ヨーガの道場をはじめる以前に結婚しており、子どももいた。したがって、在家の立場にあったわけだが、集まってきた若者のなかには道場に泊まり込んで修行を行う者も出てきた。そのため、出家の制度が誕生する。出家した信者は「サマナ(沙門)」と呼ばれるようになる。

宗教教団としての性格を帯びるようになったオウム真理教において、修行の中心はヨーガであり、そこにチベット密教の要素が加えられた。新宗教のなかには、修行を実践させるようなところもあるが、オウム真理教ほどそれに力を入れた教団はなかった。

そこが魅力となり、多くの若者たちが集まってきたわけだが、もう一つ、バブル経済の膨張による金余りの風潮についていくことができない人間たちに、それとは大きく異なる精神性を深めてくれる生き方を提示したことが信者を引きつける要因になっていた。