日本人はなぜ学歴が好きなのか。甲南大学の尾原宏之教授は「根底には『東大信仰』がある。それが強すぎるあまり、私立大学の文系学部に対してネガティブな意見を持ってしまうのだろう」という――。(第1回)

※本稿は、尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

学校の黒板に書く学生
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私立文系は「全科目」をやっていない

東大を克服しようとするさまざまな議論は、「優秀な大学だから優秀な人材が集まる、優秀な大学だから優秀な人材を輩出する」という、単純な話で否定されがちである。

だが、東大的なものに反旗を翻す歴史的な試みの底には、一見すると常識的なこの最終結論に対する疑問が常にあった。東大入学・東大卒という資格が、その人間の能力や人間性とどのように関係するのか、という問題である。

たとえば、1930年、雑誌『実業之日本』は、官界における帝大卒(特に東大卒)の優遇と、私大卒・下級官吏への差別迫害を続々と告発し、官民のあらゆる領域で学歴差別を排除する「実力主義」を提唱した。

そこには現在でいうキャリア・ノンキャリア間の制度的差別への批判と、学閥の専横への批判が混在していたが、「学歴」と「実力」の間にくさびを打ち込もうとする試みではあった。

類似の批判は戦後も繰り返されてきたことは誰もが知ることだろう。だが結局のところ、文部次官も務めた澤柳政太郎がいうように、東大(帝大)卒という学歴は小・中・高の「普通教育」を完全にこなしたことを示すもので「実力」と当然関係する、という主張が勝ちやすい。

戦後も、東大生が国・数・英・社・理の全科目にわたって最高度の成績を収めてきた事実をもって他大生との差異が説明される。左派・リベラル色の強い人々でもそうで、経済学者の熊沢誠は次のように述べている。

やりたくないことを放置する者=私立出身者

「東大出とはなにか。それは子供のころから嫌いな科目を捨てなかった人のこと(笑)だと思います。

そして、競争に耐えてあの東大に入ることができたという記憶をもつ人間に特有の、どんなことについても発揮しうる「やる気」、不馴れなことにも対応できるという自信、勉強を続けられる気力と体力、そういうすべてが、大企業の精鋭正社員の資質にまことにふさわしいのです」(『働き者たち泣き笑顔』)。

熊沢は就職差別や学歴差別を強く批判する陣営に属する。だが、この議論を敷衍すると、嫌いな科目をすぐ捨て、やりたくないことを放置する者は誰か、という疑問に行き着く。熊沢は明示していないが、大卒者の中では私学出身者がそれに該当することは間違いない。

明治の官僚である澤柳は、私学出身者は外国語ができない、大局観がない、横着であると指摘した。中学レベルさえ不完全なまま無試験で法律学校に潜り込み、文官高等試験などの一発試験を何回も受けて官界に潜り込む私学出身者が出世しないのは当たり前だというわけである。