テレビや新聞などのマスコミ業界には早稲田大学の出身者が多い。なぜそうなったのか。甲南大学の尾原宏之教授は「開校時から政党と密接な関係があったことに加え、官民の就職市場で早稲田出身者への評価が低かったことが大きい」という――。(第3回)

※本稿は、尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

早稲田大学
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東京大学と早稲田大学にあった大きな格差

東京専門学校の法律科も、1888年に文部大臣の認可を受けた。卒業生の進路を拡充させるためにはやむを得ない措置である。しかし帝国大学は、私立法律学校よりもはるかに大きな「特権」を享受していた。

この時点では行政官、司法官とも無試験任用である。私学の主戦場ともいえる代言人のち弁護士の試験は普通に受験すれば合格率数パーセントの超難関だが、帝国大学法科大学とその前身校の出身者は無試験で資格が得られた。

帝大法科の卒業生には高級行政官僚または判事・検事の道が開けているのに対し、早稲田は中級・下級官僚の座か、受験資格しかもらえない。文部大臣の認可を受けることは、セカンドクラスとしての扱いを受け入れることを意味する。実は、東京専門学校内部では政治科の学生が特別認可に猛反発していた。セカンドクラス扱いを拒絶したのである。

法律科と同様に政治科でも認可を得ようとする学校側の動きを察知した政治科の学生たちは、演説会を開き、評議員を訪問して反対運動に決起する。

結局、高田早苗をはじめとする学校当局は、妥協策として政治科では認可を願い出ず、法律科と新たに創設する行政科(第二法律科)の二科で認可を求めることとなった。したがって政治科の学生には国家試験や兵役上の特典はない(真辺前掲書)。

初任給は東大の3分の1が相場

1899年刊行の村松忠雄『早稲田学風』には、「嘗て文部省指定学校の制を設け、専門学校の政治科亦指定の二字を冠らせられんとせしや、彼学生等は憤然として曰く、我輩は独立の学生なり我校の主義は学問の独立に在り、我輩は国家の人材を以て任ず、豈に指定を受けて俗吏の群に入り、腰を五斗米に屈せんやと」とあるのはその経緯を記したものであろう。

文中にある「五斗米」とは少しの俸禄、という意味である。認可によって得られる特典が判任官見習への無試験任用ではなく、帝国大学と同じ高等官の試補への無試験任用だとしても同じように決起したかどうかはわからない。

しかし「国家の人材」を自負する政治科の学生たちが、帝大を頂点とする秩序に組み込まれてセカンドクラス扱いされることを拒絶したのはたしかである。

早稲田の出身者に対するセカンドクラス扱いは官吏登用にとどまらない。資本主義が発達するにつれ企業が就職先の主流を占めるようになるが、民間の世界でも出身学校による差別は常態化していた。

たとえば、初任給は卒業した学校によって違った。戦後に東大文学部事務長を務めた尾崎盛光の著書『日本就職史』は、明治末期の官立私立学校卒業生の初任給(文系)の格差を「帝大一〇〇に対して一橋六〇~七〇、慶應五〇~六〇、早稲田は三〇~四〇、といったところ」と見積もっている。

会社が採用活動を行う場合、出身学校によって初任給に差をつけるのはごく自然なことだった。