早稲田とは「数学の出来ぬ頭脳の劣等者の逃場所」

一高・東大型の優秀性が私学型の劣悪性を通して映し出される、という構図は歴史を貫いている。

熊沢の研究を含む数多くの社会科学の成果をたくみに用いて日本社会の「慣習の束」を描いた小熊英二の『日本社会のしくみ』は、高度成長後の学校の序列化現象に関心を注いだ。

オイル・ショック後の1970年代中頃から、文部省は助成と引き換えに私学を監督下に置き、私立の大学・短大の新設と定員を抑制した。すでに見たように私大は戦後増加の一途で、特に文系卒業生が増えすぎてしまっていたからである。

ところが、高度成長期とは違ってもはや高卒では就職が難しくなったので、進学希望者は増加を続け、減少した定員をめぐって受験戦争が過熱した。

教育学者の乾彰夫の研究によれば、その中で高校における「国立理系」「国立文系」「私立理系」「私立文系」のコース分けが広がった。このうち、なにを学びたいか、将来どの職業につきたいかについてヴィジョンを持たず、「消去法的選択態度」を取る傾向が最も強いとされたのは、受験科目数の少ない「私立文系」であった。

「私立文系」の下には専門学校、高卒の世界が広がっている。

「主要五教科、とりわけ数学の得手不得手」が進路選択に強く影響していることも明らかにされた(『日本の教育と企業社会』)。

第三章で見たように、正宗白鳥が早稲田を「数学の出来ぬ頭脳の劣等者の逃場所」と自嘲的に呼んだことが想起される。

早稲田大学大熊記念館
写真=iStock.com/y-studio
※写真はイメージです

苦手教科があっても東大に行けた時代

国・数・英・社・理の成績による一元的序列化が学歴差別や受験戦争などの病理を生むという認識から、戦後、面接試験や推薦入学の導入などの緩和策が採られてきた。

そもそも、すでに占領期にGHQは日本型入試を廃止し、学校の平常成績によって選抜することを勧告していたのである(竹前栄治・天川晃『日本占領秘史』)。

1985年、臨時教育審議会の第一次答申は「個性重視の原則」「基礎・基本の重視」「創造性・考える力・表現力の育成」などを掲げ、学歴社会の弊害や受験競争過熱の是正を訴えた。

大学入試では、「自由にして個性的な入学者選抜」を導入することを各大学に要請し、その前提として高校での着実な学習到達度を判定する「共通テスト」(のち大学入試センター試験)の創設が提言された。

良質な「共通テスト」で学力を判断し、その上で各大学が「多様で個性的な選抜」を実施する、というプランである(『教育改革に関する第一次答申』)。

東大でも、分離分割方式の下、後期日程で一次のセンター試験は三教科、二次は論文や総合科目の「私大型」入試が1990年に導入された。これによって、文系にとって鬼門となりやすい数学・理科、理系では国語・社会が回避可能となる。