自らの意思で群れから離れる「厄介な羊」

ところで、群れから迷い出た羊は、ほんとうに「かわいい仔羊」だったのか? そもそも羊が「迷い出た」というのも、羊飼いからはそう見えたということである。

沼田和也『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)

幼稚園の園長をしていたときのことを思い出す。子どもたちのなかでときおり、朝礼や終礼時になにがなんでも集まらないで、独りで遊んでいる子どもがいた。「さあ、こっちにおいで」と子どもたちが集まっているほうへ促そうとすると、ものすごい力で抵抗したり、大声で泣き叫んだりする。クラス担当の先生は慣れたもので、そういう子は無理に動かそうとしない。独り遊びをさせつつ、目の前の子どもたちと、独り飛び出した子どもとの両方に目配せしながら、見事に仕事をやってのける。

先述した女性と、羊とを重ねて考える。「迷い出た」と羊飼いに思われた羊は、発見した羊飼いの喜びをよそに、「ちッ、キモいな。また見つけてくれちゃって。放っておいてくれないかな。マジ、群れるのがウザいんだよ」と鳴いているかもしれない。

一方で、羊飼いの側はどうだろう。こんなトラブルが一度きりなら、羊を見つけられてうれしいと感じるかもしれない。だが、捕まえても捕まえても繰り返し群れから脱走する、厄介な羊だったとしたら?

「もう知らんッ。勝手に野犬にでも喰われちまえばいいんだ」。本気ではないにせよ、思わず愚痴をこぼしたくもなるだろう。ただでさえ重労働のなか、それに加えて行方不明の羊を探して回らねばならないのだから。そんなことを繰り返された日には羊飼いも、堪忍袋の緒が切れてもおかしくはない。

相手から罵倒されてもかかわり続けられるのか

かかわられることを拒む人。そういう人を前にしたとき、「そっとしておこう」「人それぞれなのだから」。そう考えるほうがずっと理にかなっているのかもしれない。かわいそうだ? 余計なお世話だ! こっちは誇りをもって生きているんだよ!──だが、もしもその人が心で血を流しているのだとしたら?

でも、その人にかかわっても「ありがとうございます。あなたのおかげで助かりました」とは決して言ってもらえず、むしろ罵倒されるのだとしたら? それでもわたしはかかわろうとするのだろうか。パターナリズムと批判されようが、その人に余計なお節介をし続けるのだろうか。