「デマ」で人のみにくい面を引き出す
逆に、家康を発信主体にする情報は相当にデマが多い。たとえば、家康が秀吉と干戈を交えた小牧の戦い(天正十二年・一五八四)の翌年あたり、家康は背中にデキものができて弱ったが、このとき、
「家康は死んだ……」
という情報を意識的に流させて、関係者の動向をみている。
武田信玄に大敗した三方ケ原の戦いのとき(元亀三年十二月二十二日)にも、命からがら浜松城に逃げ込む家康は、途中で坊主頭の敵の首をブラさげている部下を見つけると、
「先に城に戻って、武田信玄の首をとったと触れまわれ!」
と、城兵のモラルアップのために、いい加減なことをいわせている。
大坂の陣がすべてデマといいがかりの謀略戦であったことは、詳しく書くまでもない。このころになると、家康はもうホンネとタテマエを恥ずかしそうに使い分けた処女のいとけなさはカケラもなく、ホンネむきだしの狡猾なヤリ手婆そのものだ。
三方ケ原戦いの際は、この直後、信玄は本当に死んでしまったから、家康は危機を脱した。
人為を超えたツキがあった。
家康にかかると対者はすべて、自分の内にひそむ背信、密告という人間のいまわしい性格を引きだされてしまうのであろうか。こういうみにくい面を引きだし、利用する点において、家康ほどの巧者はいない。
家康の意を汲む知識人・林羅山
林羅山は、徳川幕府に「儒学」のうち朱子学を取り入れて、武士の精神的拠り所をつくり出した。
同時に、かれは「キリシタン追放」に重大な役割を果たしている。また、徳川家康の意を汲んで、豊臣家を滅ぼす口実となった「鐘銘事件」で、相当なこじつけの論理を展開したのもかれだ。豊臣秀頼がつくった方広寺大仏殿の鐘の銘のなかに、「国家安康」とあったのをとらえて、「この鐘銘は、家康という名をバラバラに切り刻んだものだ」などといい出したのだから噴飯ものである。少なくとも、学者のいうことではない。そのために、
「林羅山は、家康の御用学者だ」
といわれた。そういう面が確かにあったろう。